「絹の道」は「麺の道」でもあった

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↑ローマで堪能したスパゲッティ

今月中旬に明治大学のリバティアカデミー(シニア世代向けのカルチャーセンター)での講演を控えていて、今、その講演内容のことで頭がいっぱいだ。講演の大テーマは「文化としての生老病死」というもので大学教授や芸術家、僧侶などがそれぞれの話を語る。

僕の講演タイトルは「旅で癒す 熊野古道から世界各地へ」というヒジョーに軽いモンです((笑い)。ま、熊野古道の脇で育った僕の熊野観、そしてあちこち回った僕の「聖地」.。不思議に僕が感じる「聖地」というのは巨石が多いんだよね。この辺の話をベースに、旅に出ると元気になるとiう風なことを語ろうと思う。

・・・と書いてきて、おなかが減ってきた。今日もパスタにしようかな? 最近、事務所でパスタを作ることが多くなったなあ。僕でもできるからね。

それで、パスタについてちょいとコラム風邪風に書いてみよう。

イタリアへ行くたびに料理のおいしさに感激し、その量の多さにびっくりする。とにかくイタリア人はよく食べる。前菜からパスタ(スープの代わり)、そしてメインディッシュ(肉か魚)、サラダ、デザートとなる。イタリア人ほど大食でない日本人は、パスタあたりで腹八部目となる。だから日本人観光客がよく利用するレストランでは、日本人向きに料理の量を少なくしているそうだ。
 
ナポリで聞いた話によると、イタリアにはスパゲティに代表されるパスタの種類が600種類以上もあるそうだ。スパゲティとは紐を意味するイタリア語のスパゴから派生したスパゲット(細い紐)に起因する。

スパゲティは、マルコポーロによって中国の麺がイタリアにもたらされことによるという話があるが、これは俗説だろう。一説によると、スパゲティがイタリアに伝わったのはモンゴル帝国に関連しているようだ。

13世紀後半からユーラシア大陸に進出したモンゴル帝国は各地に貿易都市を配置し、それらをつなげた広域ネットワークを作り上げた。イタリアの商人は、これらのシルクロードを通って西アジアや中国へ向かい、シルクロードの麺をイタリアに持ち帰った。当然麺の調理法も伝えたことだろう。絹の道は麺の道でもあったのだ。
 
麺の材料になる小麦の原産地はメソポタミアといわれ、中国には今から2000年前の前漢時代に伝わった。中国から中央アジアにかけていろいろな調理法が考えられてきた。中央アジアには、「コルマ・ラグマン」という、炒めた麺がある。トマトソースをからめた麺は、シルクロード風スパゲティだった。

北京からシルクロードを西に進むにしたがって、スープ麺からスパゲティ風になってくるのが面白い。ローマにはスパゲティ博物館というものがある。今度ぜひ訪ねてみたいものだ。

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お茶が大好きなウルグアイ国民

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↑ウルグアイの美しい町、コロニア・デル・サクラメント(世界遺産)のお土産屋で見つけた、マテ茶の容器

地球の裏側のウルグアイに行って、世界ナンバーワンのお茶好きはこの国の人たちだ、と悟った。町を歩くときにも、彼らは掌がいっぱいになるような丸い器(上の写真)を持ち、それに金属のストローを差し込んでチュチューとマテ茶を飲んでいる。回し飲みすることも普通で、これは「友情の印」らしい。いやあ、お茶文化が南米に生きていまっせ。

中公新書の「茶の世界史」によると、現在「チャ」を意味する言葉は大きく2つの系統に分かれるそうだ。ひとつは中国の広東語の発音の「チャ」、もうひとつは福建語発音の「テー」グループと記されている。

広東語の「チャ」に属するものは、日本語の「茶」をはじめ、ポルトガル語、ヒンディー語、ペルシア語、トルコ語、アラビア語などなど。中国から陸路を経て伝わったという。確かに、インドでもアフガニスタン、トルコでも「チャイ」だったなあ。乾燥した国を旅するとき、ミルクたっぷりのチャイは何ものにも勝る飲み物だった。いやあ、懐かしいね。

福建語のグループには英語の「ティー」、フランス語の「テ」などがある。それは中国のアモイと貿易をしたオランダの影響が強く、茶がオランダを経てヨーロッパに伝わったということだろう。西欧ではポルトガルだけが「チャ」系統なのは陸路で伝わったのではなく、当時ポルトガルは広東省のマカオを経由して茶を輸入していたという歴史的理由による。

ウルグアイが属する中南米(スペイン語圏)ではお茶は「テ」といいい福建語の系統である。つまりヨーロッパのグループです。

マテ茶は南米で採れるモチノキ科のイエルバマテの葉を乾燥させたもの。ビタミンや鉄分、ミネラル、カルシウムをたくさん含んでいて、地元では「飲むサラダ」と呼ばれている。野菜があまり採れないウルグアイの栄養サプリメント的存在だ。脂肪を体内から排出させる効用もあるという。

ウルグアイはサッカー王国なんやで。ワールドカップの第1回大会が開催されたのがモンテビデオで、優勝国がウルグアイ。第4回大会がブラジルで催されたときも優勝しました。そのプロサッカーの選手たちのエネルギー源がマテ茶です。

もともとマテとは瓢箪製の容器を表す。現在、マテ壷は瓢箪以外に銀や銅などで作られたものも多く、お土産屋に行くと必ず棚に並んでいるほどだ。なんせ移動するときにも、お茶道具のセットを持っていく習慣が、ウルグアイにはあるんだもんね。

首都のモンテビデオで、ガイドについてくれた観光局の女性スタッフは、牛革製の持ち運びケースにマテ茶、丸いカップと、ボンビーリャと呼ばれる先端に小さな茶漉しの付いたストローを入れ、お湯が入った魔法瓶を毎日持ってきていた。

「マテ茶はウルグアイ人にとっては無くてはならぬもの。生活そのものです。会議の最中にも飲みますし、飛行機のパイロットやバスの運転手も脇においてよく飲んでいますよ」と彼女の弁。実際に飲んでみるとまさにハーブティの香り。すっきりと爽やかな感じだった。

隣国のアルゼンチン人は「ウルグアイ人はマテ茶と水筒を持って生まれてくる」と言っているほどだ。しかしウルグアイではマテ茶の栽培はなく、隣国アルゼンチン、ブラジルから輸入している。

最初にマテ茶を栽培し広めたのは南米に宣教に来たイエズズ会の人たちだった。先住民のアル中の解決法として利用したという。 地元では「マテ茶をご馳走になった人は必ず帰ってくる」という古い格言があるそうだ。

首都のモンテビデオでは、日本大使に食事をご馳走になり、ウルグアイの魅力をたくさんお聞きした。ウルグアイ国民は世界で最もストレスがない国民だそうだ。ワインもビーフもうまいウルグアイ。ウルグアイに「帰る」よ、近い将来ね。

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ランニング再開

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↑鶴見川を見ながら、ジョギング。俳句のひとつも浮かんでくる。

本日、10月4日からランニングを再開しました。1993年にランニングを始めて、その年のホノルルマラソンを完走しました。その翌年から、那覇マラソン、掛川マラソン、つくばマラソン、青梅マラソンと完走し、ハーフマラソンも勝沼をはじめ10レースぐらい出場しました。

あれは3年前♪ではなかったけど、マウイマラソン参加のため走り込みをしていたところ、レース10日前に左脚が痛み始め、マウイに到着したら痛くて歩けない状態だった。そこですぐ「報道」に切り替え、撮影に専念したわけです。

帰国して整体の先生に診てもらったところ、背骨がちょっと左側に寄っていて、そのために左脚が痛むんです、と言われました。ジョギングよりウォーキングをしてください。歩くときには右足を意識して大きく踏み出すように。決して足を組んではいけませんぞ、と忠告されました。

このアドバイスを守り、ずっとウォーキングをやってきました。週に3回ほど、家から隣の駅まで遠回りをして1時間ウォーキングをしています。鶴見川に沿って歩くので、実に気分がいいんです。俳句の一句も浮かんでこようというものです。それと駅では階段を使うこと、隣の駅まで歩くことなどをやっていました。
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↑まるで、恐竜の骨のような岩もあったりして。

ほいで、ランニングをなぜ再開したかというと、やはり走りたくなったからです。走った後の爽快感をもう一度感じたかった。汗をかいた後のビールは格別にうまいしね。

先月、スイスに取材に行ったときに、早朝、日本取材チームの女性が山間をかっこよくジョギングしていました。僕たちが朝の風景を撮影に行こうとホテルを出たときに、ジョギングから帰ってきた彼女いわく。「1時間半走ってきました。気持ちよかったですよ」。

この一言が、僕の心にドスン。紋切り型で言うと「ハートに刺さった」わけや。それと愚弟がずっと走っていて、奴のブログを見ると、レースに参加したことが面白おかしく書いている。↓

・・・さて昨日の日曜、恒例の「おじさん達のマラソン練習会」が賑々しくも、密かに行われ、15㎞のコースを走って参りました。ホノルル行き組は、皆さんさすがに人知れず練習に精を出して折られる模様で、リタイア無し、タイムも右肩上がりで良くなっております。
 おいらは、今回は1時間半を目標にしましたが、残念ながら2分遅れでした。10数年前の身体とは違うと実感 しつつ、家族からは「年寄りの冷や水」とさげすまれつつ、歳に抗う姿をさらしながら走りますが、やはり一向に タイムが良くならない現実を「ま、いいか…」と受け入れられる歳になったのだよ、明智君…・状態です。書いていて何が言いたいのか、おいらもわからなくなりましたが・・・

愚弟のこの一文を読み、「ええなあ、俺ももういっちょうやったろやないかい」と気持ちだけは紅葉、じゃなかった高揚したわけですわ。

ほいでアラカン世代になると、夜11時頃寝るようになり、朝5時頃に眼が覚めるようになったからです。出社前にちょいと体を動かしたいなと思っておりました。

以前、走る意欲がなくなると、よくランニングギアを買ってやる気を起こさせました。つまり馬に対するニンジンやね。シューズを新調したり、ランニングパンツを買ったりすると現金なもので、走る意欲がふつふつと湧いてくるんですわ。

今回もそれを利用し、昨日ランニングシューズを買い、さっそく今朝約1時間、歩いたり走ったりしました。すごく爽やかな朝で、ハワイの雰囲気を感じました。今日は僕のランニング記念日です。目指すはニューヨーク・シティマラソン!

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その後、デジカメ片手に、おとっつあん4人が江東区の清澄白川公園に結集し、そこの涼亭で、しっとりとした踊りの発表会を見ました。友人の女優が日本舞踊をやっていて、団塊親父たちが招待されたのです。大きな池を借景としての踊りは、しばし喧騒ということを忘れさせてくれました。おとっつぁんたちはカメラを構えても,外の光と中の光の落差が強すぎて、結構悩みました。

撮った写真を見るとやはり・・・。そのなかで気に入った1枚がこれ。廊下にある障子の真ん中のガラス越しに撮ったもんです。ガラスへの映り込みがいいよね、如何?

日本的舞踊至眼球的保養元気盛盛延命長寿感謝多謝!

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スイス取材から戻りました

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↑「アルプスの少女ハイジ」の世界

先日、スイス取材から戻りました。今回はスイス政府観光局のプレスツアーで、31カ国からジャーナリスト150人がスイスに集まりました。日本からは5名。そのうち2名が、東京で活躍中のニュージランド人の記者です。

面白かったのは、BRICSのジャーナリストたち。つまり頭文字から順に言うと、ブラジル、ロシア、インド、中国の記者が目立ったことです。やはり経済発展国の「今」を象徴していますね。

今回の取材では、スイスの東側を走るレーティシュ鉄道のアルブラ線に乗り、そのあとこの線路に沿って、森の中を3時間歩きました。いやあ、気持ちよかったです。
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スイスからイタリアまで延びる「レーティシュ鉄道・アルブラ線・ベルニナ線と周辺の景観」は、2008年にユネスコの世界遺産(文化遺産)として登録されました。

アルブラ線の工事では、アルプスの山間部を貫く難所がたくさんあったために42のトンネルと144の橋梁が造られました。現在この線路に沿ってハイキングトレイルが整備されています。

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↑レーティシュ鉄道↓

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そのあと、スイス南部のヴァレー州のマッターホルンの麓の町、ツェルマットを中心に取材をしました。マッターホルンを身近に見られるゴルナグラートは標高3100m。いやあ寒かったです。

翌日、ゴンドラを3回乗り継いで登ったクライン・マッターホルンはヨーロッパ最高地点の展望台で、標高3800m。富士山より高い。気温はマイナス6度でした。「グレッシャー・パラダイス」というレストラン兼お土産屋があり、アイスパレスも造られていました。

ここのすぐ下はイタリアとの国境地帯。モンブランをはじめヨーロッパの高峰が望めます。マッターホルンが裏側から見えますが、やはり勇姿はツェルマッとの町から眺めるのが一番美しい。

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↑ツェルマットから見たマッターホルンの勇姿

日本を出発したのは8月30日。衆院選投票の日で、もちろん期日前投票は済ませていましたが、選挙結果が気になっておりました。宿泊した谷あいの村のホテルは、ゴージャスだったのですが衛星放送が入らず、ドイツ語、フランス語、イタリア語の番組しかありません。BBC放送もCNNも見ることができませんでした。

しかし、結果を知りたくて、夜、チャンネルをかちゃかちゃしているとドイツ語のニュースがあり、鳩山さんが映りました。彼の背後には、赤いバラが付いている候補者の名前が並んでいる。テレビに近寄ってよく見ると「東京12区 青木愛」のところに赤いバラが付いているじゃあーりませんか。
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続いてテレビ画面が変わり、民主党圧勝を告げる日本の新聞をアップで写した。そこには「民主圧勝 308議席」の大きな活字が躍っていました。スイスの山並みに向かって、ウイスキーで乾杯しました。あのコイズミ首相が言った「自民党をぶっこわす」。それが実現したわけです。あのコイズミ登場の時が、自民党の凋落の始まりだったんだよね。これで、少しはニッポン低国はよくなるでしょう。

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暑いですね

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夏らしい天気になりましたね。やはり夏は暑く、冬は寒いのが自然です。夏好きの小生としては、こういう青空が好みです。

今日、期日前投票に行ってきました。けっこうな人が来ていましたよ。前回の国政選挙では、日本全体で10%の人が事前に投票したとか。また庁舎入り口には、出口調査をする人がいました。この調査が、その選挙の流れを左右するかもしれませんね。

選挙す木の小生としては、徹夜体制で、自民党凋落の一瞬を見たかったのだけどね、スイスのホテルのテレビニュースで確認します。

あのボンクラ首相が、テレビやラジオの自民党CMで「責任力」という言葉を使っていますが、この「○○力」というのは、僕の記憶では明治大学の某教授が、自分の本のタイトルに付けたのが最初だと思う(余談ですが、この教授が書いた本が多すぎて食傷気味。よくもまあ、次から次へと書けるなあと脱帽します)。

以降、本屋に行くと、この「○○力」というタイトルを付けた本が、なんと多いことか!嘆かわしい。ほんまに、日本人というのは恥もなくパクルのが好きだよね。

その「○○力」を今回のキャッチフレーズに使っている自民党。こんな非センス力では、もう負けたのも同じです。大手の広告代理店が、こんな陳腐なキャッチコピーを作ったのかねえ。

こちとら、自民党に「責任力がないから、いまの逆風があるんだ」と茶々を入れたいね(笑い)。公約を守らない無責任力、政権をおっぽり出す非責任力、小学生程度の漢字も知らないボンクラ首相の非インテリ力。

今回の開票結果をものすごく楽しみにしていたのだけれど、スイスのホテルのテレビで見ることになります。

今回、「マドリード番長会」の話を書く予定だったのですが、ちょいと先にのばします。というのは、近々ある雑誌にこの件でのコラムが載るのでね。その後、ブログに転載します。

ここんとこ、僕のコラムによく登場する地震予知(?)のミヤケンさんから、本日(8月20日)連絡があり、両目の奥がすごく痛むと言ってました(詳細は僕のブログを参照)。大きな地震が起こらなければいいけどね。

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疑問の数々

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↑近くのコンビニの壁。モダンアートしているでしょ?

前回の文章を一部加筆修正して、更新というせこい考えです(笑い)。写真も替えました。この「疑問の数々」はもう少し残しておきたいので。ここんとこ、原稿の締め切りが5本あり、毎日パソコンに向かう日々でした。今夜(10日)も事務所泊ですわ。

今朝11日、静岡で震度6の地震がありましたね。詳細は「疑問3」と後半の追記を読んでね♪ 超能力者(??)ミヤケンの地震予知の話です。ミヤケンさんに8月9日、電話をしたときに、まだ目が痛むので3日後ぐらいに震度3以上の地震が起こるよと、僕に予言をしました。すると今朝8時前に八丈島で震度5弱の地震がありましたし、昼前かな、また静岡の焼津で震度3の地震が起こりましたね。

また付け加えます。今朝(8月15日、敗戦記念日)、そのミヤケンから電話があり、目の奥の痛みがいったん軽くなったが、昨日からものすごく痛むと言う。だから関東、東北地方に震度3以上の地震がくるかも、とのこと。明日か明後日(16日、17日)頃の予感がすると、彼は付け加えた。地震がないといいが・・・。


あのボンクラ首相がまたやってくれましたね。長崎での原爆犠牲者慰霊平和記念式典での挨拶で、「傷跡(きずあと)」と読むべきところを「しょうせき」だと。長崎でまた赤っ恥。秘書は、彼の挨拶文の漢字全部にルビを付けなくっちゃね。何も考えずに文章の上っ面だけを読むからこうなる。他人の心の痛みを何も感じていないことを全国的に暴露したね。

閑話休題。
今年4月から、NHK学園国立校で“人妻熟女作文教室”をやっています。この艶やかなるネーミングの由来は、友人のママさんバレーボールのコーチの弁だ。「ママさんというと生活くさい感じがするけど,“人妻バレー”というと艶っぽいだろ?」と言っていたのを思いだし、そのようなネーミングにした次第。

その作文教室で、次回の宿題は「疑問に思うこと、不思議に思うこと」をできるだけ列挙すること。家庭のことから政治、宇宙の話でも何でもオッケーですと、伝えました。これをテーマにして1本、原稿を書いてもらう予定です。

ほいで、小生の疑問点、不思議に思うことを書き出してみます。みなさんも、疑問点をコメントに書き込んでくださいな。よろしくね♪

1)生物界における擬態。生物が環境に応じて自分の身体をデザインするには、上から眺める神の目が必要なのでは? どうやって発破や岩の形にそっくり変身できるのだろう?

(↑これを書いた日に、本屋に行くと「ナショナルジオグラフィック」が擬態の特集をしていた。これもシンクロニシティかい?)

2)生物をはじめ、あらゆる自然物のデザインは、なぜ美しいのか? 魚、貝、花、昆虫、雪など。

3)親友のミヤケンさんは時々、目の奥が痛くなる。それは右目奥だったり左奥だったりする。そして頭に吹き出物が出る。そうなると不思議なことに3~4日後に国内で震度3以上の地震があるんだぜ。彼は目が痛くなると、近々地震があるよと、僕に連絡をくれる。

地震が起こると不思議に目の痛さは消え、吹き出物もなくなるという。目の痛さと地震の相関関係はあるのか。彼は地震波、エネルギーを無意識に感じているのか?

(↑8月5日,9時に宮古島で震度4の地震があった。気になって11時頃、ミヤケンさんに連絡を取ってみると、「いやあ4日前から目が痛いんですわ、やっぱりね」との答え。同じ日の午後1時前にも大分で震度4の地震があった。今日8月6日午前11時に、熊本で震度4の地震あり)

4)これだけ批判されているのに、電車の中で化粧する若い女性が減らないのはなぜ、ホワイ? 

5)北朝鮮の女性アナウンサーのしゃべり方、どうにかならんかのう。

6)昨年と選手は変わらないのに、今年のタイガースはなぜ弱い? 真弓監督の能力のなさか?

7)世界各地の織物のデザインはなぜ似ているのか? アンデスとインドネシアの布など。

8)中国外務省の報道官は、どいつもこいつも、木で鼻をくくったような偉そうなしゃべり方をするのか? 最近のメガネの小太り、その前のこっぱ役人風やヒステリおばさんが出てくると、俺はチャンネルを回すことにしている。不愉快だぁ!

9)自分の力不足で、重要な職務を投げた元首相諸君。なぜ国会議員を辞任しないのか? 森、安部、福田の諸君、聞いとるか?

10)最近のゲリラ豪雨と竜巻。福岡と山口の豪雨被害に続き、群馬では竜巻で家屋が破壊された。この3県に共通項するのは、ボンクラ首相を輩出したところ。次は「鮫の脳みそ」の出身地、石川か?

11)数独(すどく)などをやっている中高年が多いが、本当に脳にいいのか? 小説を読むほうが、漢字を覚えるし、イメージを喚起することによって能の活性化が図られるし、別の人生を体験できるし、このほうがいいと思うけどね、如何?

12)最近、電車内(山手線、小田急線など)で食べ物にかぶりつく人が多いのはなぜ? おむすびとかハンバーガー、菓子パンを座席で食べる若い人が多い。その匂いが車内に充満する。これがいやだね。先日。鮨折を開け箸で食べているおばさんを小田急線で発見。そういえば、どか弁に、ぱくついている若い男の子もいたなあ。

13)車内で、大きな紙袋をそばに置き、2人分の席を取る女性が多いのはなぜ? 周りに人がたくさん立っているのねえ。

14)駅のホームやビルの前などでしゃがみこむ若い人が多いけど、これは食生活が悪いから背筋力がなくなったからかい?

15)ブラジルのサッカーの選手の動きには、サンバのリズムや格闘技であるカポエラの動きが入っているそうですが、日本のサッカーに日本の武道の動きを入れればいいと思うんですけど。たとえば合気道や武道,柔道の動きなどをね。

16)モデルさんと長い間一緒に仕事してきたが、疑問あり。メイクさんが使う口紅の筆についてだ。これは消毒しているのだろうか? こちとら潔癖症じゃないけどの、他人のつばのついた筆で自分の唇をなでられるのは気持ち悪いと思いません? デパートの化粧品売り場でも同じだよね。

17)テレビのワイドショー番組で、芸能人の葬儀中継がよくあるよね。葬儀が仏教スタイルなのに、レポーターが「○○さんは天国から・・・」とか「この声は天国に届くでしょう」と言っているけど、「天国」とはキリスト教における概念でしょう? 仏教の葬儀にキリスト教を持ち出してきてもらうと困るぜ。

18)もうひとつ、これもテレビのスポーツ中継のアナウンサーが「平泳ぎは日本のお家芸です」とか言っているけどさ、「お家芸」とは国技とか、その国の伝統的競技、伝統的芸能などを意味するのではないの。これはおかしいよね。相撲、柔道をお家芸と言うのはよく分かるけどの。

19)異常気象で、どんどこ平均気温が上がっていることを「温暖化」というこど、これは「熱帯化」と言うべきではないか。「温暖化」といえば、なんやいいイメージを感じさせる。現実派そんなもんじゃないだろう? 国民の危機感を緩和するために、意図的に「温暖化」と表現したのか? 何か意図を感じるのは小生だけだろうか?

(20)魚や鳥の群れが瞬時に一糸乱れず方向転換をするのはなぜか? リーダーがいるのか?

(21)これは疑問ではないが、衆院選の北海道12区で「最初はグー、武部はパー」といわれているのは本当かい? それなら面白い。庶民のセンスもなかなかのもの。あのホリエモンを「弟」とのたまい、今も小泉路線を固守しているらしい。そういえば民主党を心配して「ホップ、ステップ、肉離れ」とあるという。うまいキャッチコピーだ。

(22)最近の若者は、穴の開いたジーンズを着て粋がっているが、これは世界のセレブだからこそカッコいいんであって、お前らビンボーな奴が着るとホームレスに見える。何もわかっていないの。

まだまだあるけどの。
今日はこれぐらいまで。

みなさんの疑問点を待っています♪

追記:(3)で書いた地震予知のミヤケンさんから8月6日午後5時半に電話があり、「ごうさん、左目の奥の痛みがまだ消えないんやけど、これは今までの経験から言うと、また地震があるということなんや」とのたまう。「いやあ、今日の午前11時に熊本で震度4の地震があったきり、聞いてないけどな」と僕。

「もうじき山口、広島など中国地方あたりで、地震がありそうな気がするんだけどの」とミヤケンさんは「予言」していました。昨日でしたっけ9日、関東地方で地震がありましたね。茨城で震度4.僕の事務所もかなり揺れました。ミヤケンが予測したように山口県ではなかったけど。ミヤケンからの電話から4日目でした。確かに地震は起こりましたね。

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パプアニューギニアの話など

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↑鉄板に描かれた「世界地図」。

お盆が近づいてくると思い出すのが親父のニューギニア戦線の話。子供の頃から何十回と聞いたことか。僕の父は、7年前に83歳で亡くなった。今生きていれば91歳かな。いい親父だった。好きなことをやらしてくれた。知的好奇心が強いのも、親父のDNAを引き継いでいると思う。

親父は激戦のニューギニア戦線から生き返った数少ない南洋戦士だ。駆逐艦に乗っているときに、アメリカ軍の飛行機の一斉射撃を受け、足に流れ弾が貫通。治療のためにパラオ、トラック島に送られ、そこで治療を受けた。

傷もすこし癒えた頃、広島の呉に移されそこで治療を受けるが、そのときに広島への原爆t投下に遭遇。「広島市内まで30キロぐらい離れていない病院だったが、空が真っ赤になるのを見た」と親父。ずいぶん経ってから、心配になり、原爆症の診断を受けたことがある。

そのためにあのひどいニューギニア戦線に行ったが生き延びられたというわけだ。僕が座右の銘としている「人間万事塞翁が馬」というのは、親父のニューギニア体験に基づいている。

親父の話。「ニューギニアの島民は面白いんやで。ベリー・グッドは“ナンバーワン”、最悪は“ナンバーテン”と言うわけや。“ニッポン、ナンバーワン、アメリカ、ナンバーテン”とかね」。これはピジン・イングリッシュと呼ばれる、現地の言葉と英語などの巨大言語とのチャンポン・ランゲッジ。

現地では、大雨は「ビッグ・レイン」。早朝は「ビッグ・モーニング」。銀行は「ハウス・マニー」、病院は「ハウス・シック」、郵便局は「ハウス・ポス(ト)」。わかりやすいやろ? 僕がずっと興味を持っている、一種の言語体系であるクレオール語に結びついている。

取材でパプアニューギニアに行ったことがある。親父が闘った戦地を見る意味もあった。親父が生存中に、何回かニューギニアツアーをけしかけたけれど、拒否された。やはり戦友の死が彼の方に重く圧し掛かっていたのだろうと思う。

親父は亡くなる10年ぐらい前に、やっと戦友3名と連絡がとれ、郡上八幡何十年ぶりかの再会を果たした。そのときの喜びの声が今も耳に残っている。

あるときに、親父の戦争体験を記録しておこうと、テレコをセットして数時間話を聞いたことがある。しかし、親父を取材するというのは、けっこう照れるモンですわ。今まで何百人にインタビューしてきた僕だけど、ちょいと居心地はわるかったなあ。

親父は一生懸命話してくれた。が、そのときに録音したテープ1本がテープのせいでうまく入っていなかった。これが悔やまれる。親父の一代記をかくつもりだったんだけど。

父は今までに3~4回ほど死にかけている。臨死体験もあり、三途の川の向こうjから「こっちに来ぉい」と呼ばれたと言っていた。行けば一環の終わりだったと。

ほいで、ニューギニアの話を転載したいと思う。
お盆が近づいたことへの親父の思い出としよう。それといまだもって、どんより空へのアンチとして。


      島民と共に造ったツリーホテル

かつて、ネスカフェのテレビCFで「ツリーハウス」が登場しているよね。文字通り「木の上に造られた家」で、男性二人がそこでコーヒーを飲んでいる図。

実は、僕、この家と同じような「ツリーハウス・ビレッジ・リゾート」に泊まったことがあるんだよね。場所はパプア・ニューギニア。本島の東側に浮かぶニューアイルランド島のケビアンだ。この町は日本軍がニューギニア侵攻の際、最初に上陸したところとして知られる。

カラフォリムと呼ばれる巨木の切り株の上に建てられた、高さ5メートルの木造ホテル。木の階段を上ったところがフロント兼レストラン。その階上が2つの客室になっている。

本棟の両脇にも8つの部屋がある。最上階の4階の部屋に入ると木の香りが鼻をかすめた。真下は白砂のビーチ。波間で遊ぶ子どもたちが見える。海からの涼風が吹き抜け、すごく心地よい。

オーナーであり、実際にこのホテルを造ったのはニュージランド人のアラン・ベックさん。「切り株の上に、最初は自分の家を造ろうとした。みんなクレージーと言ったが、屋根の形ができてくると、グッド・アイデアだと誉めてくれたよ」とアランさんは笑う。

2000年11月から工事を開始し、翌年9月に完成した。隣接するバルース村の人たちが毎日手伝ってくれた。ホテルもユニークだが、アランの人生も波乱万丈だ。

20歳のときにカナダに渡り7年間金鉱で働く。母国に戻り、蓄えた資金を基に自分でヨットを作り販売を始めた。また自らもヨットマンとして南太平洋を長期航海。帰国後ニュージランドのテレビ会社で番組制作に関わる。

「10年前にここに撮影に来てすごく気に入った。自然も豊かだし、皆がすごく優しくてね、村長の許可を得て永住することに決めたんだ」

ホテルはバルース村の人たちの遊び場だ。村長や子どもたちが客のカバンを部屋に運んでくれる。豪華さはないが、手作りの温もり。部屋のあちこちからアランの人柄が伝わってくる。こんな生き方って、憧れるね(了)

・・・僕は、パプアニューギニアのホテルから、入院している親父の携帯電話に連絡をとろうとしたけれど、通じなかった。ニューギニアの雰囲気を伝えたかったのだけどね。帰国して、弟にそのことを話すと、「バッテリーが切れていた」との話。かなり、がっくりしたことを覚えている(笑い)。親父にラバウルの現在、南洋の風の感じを少しでもわかってほしかったんだけどね。

●お盆を前に、両親に感謝をこめて・・・
            
父母の涼しき風のあちらかな
あちらでの行水の温度ええか
停電で怪談の父台風一家(一過)
台風の主役はいつも暗闇の父
ラジオ囲み主役の父の台風裡
台風の眼に一瞬光の電波塔

母亡き家寝返りを打ち遠花火
遠花火母亡き家の置時計
行水も死語となり原爆忌
両親も烏の行水みず零る
遠花火納屋で眠る吉川英治
 
打ち水の向こうにキャッチャー南方兵士
打ち水に映る軟球手ごたえ確か
木漏れ日がシャツにも映り南方兵士
熊野灘投げる石に力あり父の背中の皺の多さよ

緑陰で母緑の色川を語る
緑陰に母そっときて一言のこす
遠音や花火に重ねし那智曼荼羅図
遠花火亡き母と川原に立つ

   

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3000キロも旅をするアオウミガメ

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↑テッセンの美しい花びら

こちとら、花の名前なんてまったく知りません。
知っているのは、アサガオ、コスモス、ヒマワリ、バラ、サクラ、ウメ、アジサイぐらいのもんだ。最近、この写真の花の名前がテッセンだと知り、ひとつ賢くなりました。クレマチスの一種です。

テッセンを漢字で書くと「鉄線」。茎が堅く針金状であることから、この名が付いたとか。カタカナ表記だと、それなりの雰囲気があるが、感じだとまったくつまらない名前だ。ネーミングなんてこのようにかなりいい加減なもんですわ。国名、地名にしてもね。

今回も、この花の写真に関係なく、南アラビアの砂漠と石油の国・オマーンのアオウミガメの話を紹介します。
うっとおしい梅雨空なんで、からっとした砂漠の話がしたくて♪ 前回のカバの話が評判いいので、動物シリーズといきましょう。

↓ インド洋、アオウミガメの三大産卵地

南アラビアのオマーンは砂漠と石油の国、最近は日本チームとのサッカー相手として知られるが、もうひとつ有名なものがある。それはインド洋におけるウミガメの三大棲息地なのだ。

首都マスカットから東南へ200キロ、オマーン湾に突き出たラス・アル・ヘッドがウミガメの保護区である。取材前に自然保護局長に話を聞いた。

「オマーンの海岸線にやってくるのは5種類のウミガメ。一番多いのがアオウミガメで、5月からの産卵のシーズンになると、毎晩わずか1キロのビーチに200匹ものアオウミガメが上陸し、そりゃ壮観ですよ」

私たちは期待を胸に取材に向かった。夜10時海岸に着くと、入り口には保護区を示す大きな看板が立てられ、遮断機があった。取材許可書を見せ、その夜は車の中で仮眠。朝方、海岸に下りると、あるわ、あるわ、直径2メートルほどの大きな穴がいくつも掘られていた。その数の多さにびっくり。
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↑アオウミガメが産卵したあと後、砂浜に残った文様。穴ぼこの底に卵がある

保護官に聞くと、今夜は150匹が産卵中だという。どの穴にもカメが潜み、産卵の真っ最中。「フガァァ」という大きなため息があちこちから聞こえてくる。カメの目には涙らしきものがあふれているが、これは涙じゃなく塩分が出ているらしい。当夜、レインジャーが計測すると、甲羅の長さが108センチもある大きなカメもあった。

アオウミガメは一晩に100個の卵を産み、それらは55日後に孵化する。面白いことに孵化の温度によって性決定がなされるという。温度が29度Cより低いとオスが生まれ、高いとメスばっかりになるそうだ。環境によって変わる性決定。不思議な自然の摂理だ。

産卵を終えた母親カメは前足で砂をかけて穴を埋め、海に帰っていく。その這いずった跡は、暴走族が海岸を走り回ったような曲線が浜全体に描かれていた。その近くには、卵を狙うキツネの足跡も点々と付いている。首尾よく孵化しても、海に到達する前に鳥の餌食になることも多い。生存競争はどこでも厳しいのだ。

オマーンの浜で標識タグを付けられたアオウミガメが、はるか3000キロも離れたモルジブ諸島で発見されたという。カメの行動範囲たるや、おそるべし。まさにグレート・ジャーニーである。

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梅雨だから,ボツワナの話をしよう

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↑新しい写真を・・・毎朝自宅の3軒隣のお宅の紫陽花を撮影しています。

はっきりしない梅雨特有の日々が続きますが、ごきげんいかが? 写真は紫陽花を載せますが、こういうときには、からっと晴れたアフリカの話でも,したろやないかいと、以前書いたコラムを載せます。

この国は「没穴」、おっと間違い、ボツワナです。青空が高く感じ、吹いてくる風も爽快。アフリカのサファリツアーといえば東アフリカのケニアやタンザニアが有名ですが、ボツワナはそれ以上に素晴らしいところでした。ゾウやカバをはじめとして動物が多いんです。チョベ国立公園やリニアンティ動物保護区、オカバンゴ湿地帯など、面白いところがいっぱいありまっせ。アウトドアー好きにはお勧めの国です。また行きたい♪


「ゾウやカバが遊びに来る豪華リゾート」

10人乗りのセスナ機はぐっと高度を下げた。ブッシュの中に延びる1本の白い滑走路が眼下に見える。パイロットの肩越しに黒ゴマのような集団が。それは滑走路のそばで草を食むゾウの群れだった。これぞアフリカや! この「空港」はボツワナ北西に広がるリニヤンティ動物保護区の「玄関口」だった。

アフリカの南部に位置するボツワナは、南アフリカに隣接する内陸国で、国土の南半分はカラハリ砂漠が占めているが、北部にはゾウで有名なチョベ国立公園や巨大なオカバンゴ湿地帯がある。

ゾウと同居する空港から、リニヤンティ動物保護区中にあるキングス・プールロッジに向かった。リゾートはワイルドで豪華な造り。なんでリゾートに「キング」と付くかというと、スウェーデンの国王がここをエライ気に入ったからだそうな。チェックインしたときに「夜8時以降、リゾート内を歩くときには必ずフロントに電話すること」と注意された。

暗くなると近隣に生息するゾウ、カバなどの野生動物がリゾート内に遊びに来るから危険だという。「電話を聞いたら、すぐスタッフが銃を持ってお部屋に向かいガードしますから」。確かに僕が泊まる部屋の前には、ゾウやカバの大きなウンチが転がっていた。

リゾートの目の前がリニヤンティ川の支流がせき止められた細長い沼で、部屋から沼を見下ろす感じだ。ここに20頭のカバが生息しているという。部屋に居ながらにしてカバを観察できるのだ。川向こうには隣国ナンビアのサバンナが広がっている。

朝3時半、ブウ、ブイブイ、グウグウというカバの鳴き声に起こされた。まるでブタそっくりで、草をかじっている音も聞こえる。耳を澄ますと4頭ぐらいが近くにいるようだ。と、部屋のすぐ下の樹木をかきわけながら上陸してくる音がした。

壁1枚向こうに野生のカバが。僕は大自然のなかでカバと同じ場所、同じ時間を共有していると感動した。テラスに出ると、ナンビアの草原に下弦の月。実に清々しい静けさだ。吹いてくる風に生き物の息づかいと獣の匂いを感じた。翌朝、僕の部屋の前にはカバが生産した大量のウンチが転がっていた。

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ルイジアナ州のケイジャンたち

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↑ラファイエットの、ケイジャン・カルチャーセンター。ケイジャン語の辞書が並べられていた。


今日の夕刊紙を読むと、あのボンクラ首相がまたやってくれたそうです。都議選の応援で「必勝を期して」というところを「惜敗を期して」と演説したという。

「必勝」と「惜敗」。普通の脳みそがある人なら、こんな間違いはないだろうね。候補者も支援者も顔が引きつった様子が目に浮かぶようです。漢字が読めないどころか、一般的な日本語が浮かばないのが我が馬鹿首相でありまする。「自分のことを少々アホ]と自虐ネタを言っているらしいが、「アホ」はまだましじゃぁ。国民感情から言うと「どえらいアホ」の二乗である。恥ずかしい。哀しい。早く、辞めてくれぃ。

・・・と、日本を憂いながら、マクラの話とは全然関係ないけど、以下関西のシニア雑誌「大人組」に連載しているコラムを転載します。アメリカのルイジアナ州に住むフランス系のケイジャンの人たちの話なんです。アメリカは広い。いろんな人たちが住んでいるなあと、行くたびに実感しています。

ルイジアナ州を代表する町といえばニューオリンズだ。その「ジャズ発祥の町」の西部からメキシコ湾に沿い、テキサス州との州境にかけて、古いフランス語を話すカナダ系フランス人が住んでいる。そのエリアは「ケイジャン・カントリー」と呼ばれている。

その名前の由来が興味深い。カナダ東海岸のノバスコシア半島周辺はアーカディアと呼ばれていた。17世紀、フランス南西部から多くのフランス人がこの植民地に移住し「アーカディアン」と呼ばれた。18世紀に入ると、イギリスがこの地方の支配力を強め、人々にフランス語を捨て、イギリス国王に忠誠を宣言しろと強制してきた。
 
Mimg_9351 ←ケイジャンの末裔の女性、ルックスはフランス顔ですね

これを拒んだアーカディアンは土地を奪われ、ある者はカリブ海へと向かい、またある者はルイジアナ州へと新天地を求めて逃げた。後にアーカディアンは訛って「ケイジャン」と呼ばれるようになった。

彼らはルイジアナにカトリック、音楽、料理、言語など新しい文化をもたらした。特に料理への貢献度が高く、南西フランスの伝統的な家庭料理を、シーフードにチキンや野菜、ハーブやチリペーパーなどで味付けし、ケイジャン料理として作り上げた。代表的なものは炊き込みご飯の「ジャンバラヤ」、オクラを使ったブイヤベースの「ガンボ」などがある。
 
音楽の伝統も引き継いでいった。ケイジャン音楽はアコーディオンとフィドル(バイオリン)を基本に、ラブボード(ブリキの洗濯板をスプーンで擦る楽器)で構成された単純明快で陽気なダンス音楽だ。
 
ケイジャンたちの子孫が多く住むラファイエットには「フレンチ・ルイジアナの首都」というキャッチフレーズがあり、アーカディアンの文化センターもある。17世紀にフランスから最初の移民がアメリカに到着して以来、英仏の争いに翻弄された少数民族の歴史が展示されている。彼らを支えていたのはカトリックと音楽だった。


ここで駄句を・・・

六月の路上に魂のジャズ漂流す
ビール瓶六月の暑さを封印す
硬質の光の中に墓のオブジェ
六月のジャズ「欲望」から「墓場」に流る
汗ばんだ黒肌にラム三杯ギフトしよう
ジャズの町暗いホールで植草甚一す
黒肌のラッパの音は葬送歌

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暑くなりましたね、近況など

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↑アンディ・ウォーホールが描くM氏(ほんまかいな?)

長い間、ブログの更新しないでいると、アメリカから熊野から催促が来ました。すんません。
と言いながら、なんか書かかないかん。何にしょうかいの? とりあえず近況を列記します。

*最近、文化人類学を勉強しています。
レヴィ・ストロースの本を再読中。あの構造論が数学からのヒントだったというのを初めて知りました。

*哲学の本を読まなとあかんと、ここんとこマルクスの「資本論」をゆっくりと読んでいます。この第1章「商品」は「商品の呪物的性格とその秘密」というので終わっています。この小見出しの「商品の呪物的性格」とは、商品の裏にはフェチシズムがあるということなんやないかい。「あれは嫌いやけど、これが好きという」考えですけど、なんで僕たちはモノにグッと来るものと、来ないものがあるのだろう? マルクスはこの辺のこと、どう考えていたのかいね? これから勉強します。

*4月末から、NHK学園国立校で人妻熟女を相手に講師をしています。みんなやる気満々で、講義していて楽しいです。生徒さんはみんなセンスがいい。

*俳句をひねっています。また有名な俳人の句集も読んでいます。好きな句を書きましょう。

「ちるさくら海あおければ海へちる」(高屋窓秋)
「しんしんと肺碧きまで海の旅」(篠原鳳作)
「『月光旅館』/開けても開けてもドアがある」(高柳重信)

「未来より滝を吹き割る風来る」(夏石番矢)
「半身は夢半身は雪の中」(宇多喜代子)
「木の香潮の香新宮の夏衰えず」(茨木和生)

「ピストルがプールの硬き面に響く」(山口誓子)
「朝湯こんこんあふるるまんなかのわたくし」(種田山頭火)
「立ちどまると水音のする方へ道」(種田山頭火)

「夏の河赤き鉄鎖のはし浸る」(山口誓子)
「草の穂の一匹の蟻にも大空」(尾崎方哉)
「かくれんぼ三つかぞえて冬となる」(寺山修司)

「春ひとり槍投げて槍に歩み寄る」(能村登四郎)
「てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった」(安西冬衛)
「蝶落ちて大音響の結氷期」(高沢赤黄男)

「滝落ちて群青世界とどろけり」(水原秋桜子)
「風たちぬ爽けき街を父の逝く」(角川春樹)
「渡し場に/しゃがむ女の/淋しき」(西脇順三郎)

「水枕ガバリと寒い海がある」(西東三鬼)
「戦争が廊下の奥に立っていた」(渡辺白泉)
「おそるべき君等の乳房夏来る」(西東三鬼)

「椰子の落ちて位置決まる午後」(浅井慎平)
「数式のオブジェノートに風光る」(浅井慎平)
「宿帳の余白の紙魚(しみ)や冬の旅」(浅井慎平)

・・・なんて名句は何回読んでもいいね。一編の短編小説の趣。
4句目の夏石さん、5句目の宇多さん、6句目の茨木さんは作家の中上健次さんつながりで、会ったことがあります。最後の句の写真家浅井師匠とは、数え切れないぐらい飲んでいます。

*西オーストラリア州における、日本人のダイバー移民について調べています。ここを舞台にした活劇小説を書きたい。

*スカイプをやり始め、1週間に何回もコロラド州にいる写真家Kさん、ミズーリ州で大活躍のカントリー&ウエスタンのミュージシャンI氏と会話を楽しんでいます。なんせ何時間しゃべろうとタダというのがいいですわ。海外に友人がいる人は、ぜひ利用するといいでっせ。

*ここんとこ、朝日新聞の夕刊1面で大逆事件についての連載をしています。大逆事件でわが故郷の人間が何人も処刑されています。新聞を毎日見とったら、知り合いが写真付で何人も登場しました。大逆事件についてもっと知らないかんと思った次第です。

*先週の土曜日、町田のブックオフで呼吸法の本(新潮選書)を買いました。表紙をめくると、著者のサインが。本を贈った人の名前を見ると、僕の知り合いのアメリカ人(合気道の達人)じゃあーりませんか。もう20年近く会っていませんけど。彼は東京に長く住み、日本語ペラペラ。コンサルティングや翻訳をしています。推測ですが、家人が本屋に売ったのでしょうね。ブックオフで出会うのもなんかの縁。彼に近々インタビューをしようと思っていたのでびっくりした次第です。これこそシンクロにティでしょうね。

*今月末に、トルコに行きます。国技であるオイルレスリングの全国大会を取材します。

ここで駄句をふたつ、

    草の海イルカ飛ぶ日や夏木立
    遠花火点滴の母緑の故郷を語る

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いい日、晩春、川流れ

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↑庭から眺める都幾川(ときかわ)の風景

先日、仲間のSカメラマンから「東上線の森林公園の郊外に、案内したいところがあるんだけどさ.,食事するところなんだけど、ちょっとほかとは違う雰囲気で・・・」という電話をもらった。「女将さんもユニークで、話が面白く芸術家肌の人で・・・」

彼とはアラビア半島のオマーンへ4度、カナダ、南イタリア、熊野古道、佐渡、高知よさこい祭りを一緒に取材した仲間だ。久しぶりの再会で、同行はオマーン政府観光局のO女史。僕は地元の食材を使った小料理屋か蕎麦屋かと推測した。

Sカメラによると、彼のお嬢さんが小学生のときに担任をしてくれた先生が引退して、会員制の小料理屋をやっているという。「いやあ、ほんとうに心が落ち着く場所なんだよね。絶対気に入ると思うよ」

案内されて、まずその風景のすばらしさに感動した。目の前に林があり鶯が鳴き、ひよどりが空中ダイブをしているのが見える。そして右奥に都幾川の流れ。遠くに秩父の山並みが望める。ずっと見ていても飽きない風景だ。鳥の鳴き声以外何も聞こえない。

鶯の真っ只中を川流れ
川に影目覚める大人の遠足です
風光るご飯も光り埼玉産
     春の鳥空中ダイブ茶柱も
ひよどりの垂直降下晴舞台
都幾川よ今こそ光れ巣立鳥

「やって来る鳥の数は40種ですね。ウグイス、オールリ、カワセミ、シラサギ、ウソ、コジュケイ、キジなど見ていて飽きませんよ。川原に狐が水を飲みに来るのも見たことがあります」と語るのは元教員の女将のあけみさん。沖縄の血が入っている方で、エキゾチックな美人だ。教師時代の手塚治虫さんとの出会いなど、面白すぎる話はあるが今回はカット。いただいた名刺を見ると「着物のリメイク、紙芝居おばさん」の肩書きが。

ここは、もともとある企業家の別荘だったところ。自分の空間がほしいと探していたところ、まったく偶然にこの場所を見つけたという。そこを教員夫婦が購入し、ごく親しい人だけに食事を提供することを始めた。この写真のすぐ後ろに、別棟の2階建ての部屋があり、ここは浅井長政ゆかりの建物を移築したという。すぐ近くの畑で採れたオーガーニック素材を中心に心のこもった、シンプルな料理に舌鼓。おいしい料理をいただき、おもしろい話に、時間を忘れた1日だった。

女将さんはガンで3ヶ月の余命といわれていたそうだが、ここに来て完治し、医者が驚いたそうだ。風景は人を治療するということを実感した。

僕は、この風景を見て、老子の次の言葉を思い出した。
 
 寒さは熱狂すれば直る
 熱狂に勝つのは静けさなのさ
 実に清清しい静けさだけが
 この世の狂いを直すものだよ  (訳・加島祥造)

酒に酔い、話に酔い、人に酔う。
Life is good.
 

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トルコで一番有名な日本人

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↑イスタンブール、ガラタ橋の下にあるシーフードレストランで。

 関西で発行されているシニア世代向けのビジュアル誌「大人組」の5月号に書いた、トルコの話を転載します。この雑誌の僕のコラムタイトルは「深旅遠望」といい、もう4年間旅の「うんちく話」を載せています。こんな日本人もいたということ、僕の故郷熊野とトルコにはこんな深い国際交流があったことを知ってもらいたい。

「トルコで一番有名な日本人」

 トルコは僕の好きな国のひとつ。先ごろ出版された「明治の快男児トルコへ跳ぶ」(現代書館)を読んで、トルコがなぜ親日国なのかがよくわかった。日本とトルコとの交流のために一肌脱いだ山田寅次郎の熱い物語である。

 明治23年、トルコの軍艦エルトゥールル号は明治天皇に謁見し帰途についた。だが日本は台風シーズン。エル号は熊野灘の串本沖で台風に遭い沈没。そのときに大島の人たちは村を挙げて懸命に救助活動をしたが、乗務員609名のうち助けられたのはわずか69人だった。この話は、現在でも多くのトルコ人が知っている。詳細は僕の
このブログの、いつだったかな(笑い)に書いていますので、見てね。

 ほいで、山田寅次郎(群馬県出身)だ。24歳の寅次郎は沈没事件に強いショックを受けた。トルコから皇帝の親書を持って我が国に11ヵ月もかけてきたのに、660名もが遭難死したということはあまりに痛ましすぎると、彼は新聞各社に働きかけ、遭難した家族に送る義捐金を集める運動を始めた。

その結果、現在のお金で3000万円相当のお金が集まり、寅次郎は事件の2年後に義捐金を持ってトルコへと向かった。この事件をもってトルコと日本の交流が始まり、来年は120周記念の年となる。

 寅次郎は以来約20年間トルコに滞在、イスタンブールの日本商店のマネージャーとなり、日本・トルコ交流の先駆者となった。トルコを訪れる華族や政治家の通訳を務めた。トルコ建国の父ケマル・アタチュルクに日本語を教えたという。トルコで最も有名な日本人だ。

また、寅次郎は日露戦争時、ボスボラス海峡を通過するロシアの軍艦を偵察し日本大使館に伝えた。日本が大国ロシアに勝利できた裏には、寅次郎の「目」の活躍があったといえるだろう。

 寅次郎は慰霊碑の建立にも力を注いだ。日本にトルコ大使が赴任すると、串本大島の慰霊碑に花を捧げるのが恒例となっている。今年、大島にはトルコのダイバーが来て、エル号の遺品の採集を行った。大きな料理用鍋など3500点の遺品を収拾した。この4月1日から来年1月末まで、串本の海中公園水族館で展示している。

トルコの地中海沿岸の町メルスィンと串本は姉妹都市。町には「クシモト」という名の通りがあるそうだ。今度確認に行きたい♪

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丸木舟完成

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3月27日の朝日新聞夕刊の記事「丸木舟完成 来月出発へ 新グレートジャニー」を読んで、僕は新たな感動にとらわれた。上の写真の記事だ(クリックすれば写真が大きくなり、記事が読めます)

というのは、冒険家であり武蔵野美術大学教授である関野吉晴さんが、インドネシアのスラウェシ島からフィリピン経由で、日本人が移動した南方ルートを実証する旅に出るという話だ。

関野氏は、これまでに人類の移動を逆に辿り、南米の一番南から旅を開始しアフリカまで人力で行ったすごい人だ。自転車、カヌー、馬などを利用し、文明の利器を使わず世界一周をした冒険家である。確かTBSだと思うけど、彼の足跡を追ったドキュメンタリー番組「グレート・ジャーニー」を見た人がたくさんいるに違いない。

で、僕との係わりだけど、昨年初夏、「伊勢・熊野路を歩く」(発行ウェッジ)の取材で故郷の熊野に帰った。池袋からの深夜長距離バスを利用した。新宮駅に着きバスを降りたら関野さんがバスのそばで荷物を受け取っていた。

あ、関野さんだと思った。僕は面識はないけれど、顔は知っていた。なんで熊野に来ているのかな。同じバスに乗っているのを知っていたら話したかったなと思った。

というのは、関野さんの「グレートジャーニー」に同行したS君が僕の友人だからだ。S君は僕以上に世界各地を回り、現在「地平線会議」の世話役で、また世界で2人しかいない「カーニバル評論家」(本人談)。関野さんのテレビの番組で、S君がパナマあたりでカヌーを漕いでいるのを見ていたし、彼と会ったときに各地で先乗りとして取材許可などを政府機関などに交渉する苦労話を聞いていたからだ。

僕の熊野取材が終わり、東京行きの深夜バスを待っていたら、関野さんがリュックを担いで来るじゃ、あーりませんか。僕はすぐに話しかけた。S君の友人で、大兄の話はよく伺っていますと。

僕は深夜バスの彼の隣に席を替えてもらって、話を聞いた。
熊野に来た理由は「新宮にいい鍛冶屋がいると紹介してもらい、その人にマサカリを作ってもらい、それを取りに来たんですよ。今度の航海で使う舟は全部手造りなんです」。その鍛冶屋とは新宮市相筋(あいすじ)の大川鍛冶屋だった。僕が子どもの頃、親父に連れて行ってもらった鍛冶屋だ。

話は盛り上がり朝方までしゃべった。
関野さんが出航するインドネシアのスラウェシに、僕も1ヵ月後に行くことになるという偶然も重なった。僕の場合は有名なトラジャコーヒーの取材だったんだけどね。

南米最南端のフェゴ島のインディの生き残りの人の話、パナマでカヌーによる国境越え、ベーリング海峡をアラスカからロシアへカヌーでの航海、アマゾン川奥地の先住民の話など興味は尽きることがなかった。

「今回の旅では、船の材料や道具はすべて自然の中から集めました。古来の人間と同じ方法です。丸木舟を造るマサカリの材料の砂鉄も千葉の海岸で、学生と一緒に集めたんですよ。それを大川鍛冶屋さんに渡して、マサカリを作ってもらったんです。いい仕上がりで大変満足しています」。島の長老たちに舟の作り方を習い、カヌー型の舟が完成した。

関野さんは学生たちと一緒に4月にスラウェシ島を出発する。台湾やマレーシアを通り、2年をかけて航海する。
その丸木舟を作ったマサカリは新宮産。新宮人としては嬉しい限りだ。「新グレート・ジャーニー」がうまく行くことを!旅路平安♪

詳細は、
http://www.asahi.com/travel/news/TKY200903270103.html
関野さんのサイトは、
http://www.sekino.info/


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アリゾナ取材から帰りました

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↑グランドキャニオン

先週土曜日夜、アリゾナ旅行から戻りました。昨年、州都フェニックスでメジャーリーグの春季キャンプの取材をしたことがあり、アリゾナはけっこう好きな州です。

今回は、フラッグスタッフを起点として、セドナとグランドキャニオンを取材しました。

セドナは世界中からスピリチュアルな人が集まるところで有名な町。赤茶けた岩が町をとり囲み、いかにもという雰囲気。さすがだと思ったのは、町の観光案内所にいくとヒーラーの顔写真付のパンフレットのコーナーがあったことです。

僕たちも、アメリカ先住民の血を引くヒーラーの案内で、メディテーションをセドナの丘の上で体験しました。このヒーラー、僕の故郷の熊野の友人H君によく似ていて、親近感を持ちました。地元の人なら判ると思うけど、喫茶店「竹林パワー」の店主にそっくり。
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セドナの山に登り、岩肌に横たわる。目をつぶる。頬に感じる風が気持ちいい。ヒーラーが奏でる太鼓の音、笛の調べが心地よく、なんや母親の胎内にいるようなリラックスしたいい気分になりました。こんな時間を、日常生活でも持つ必要があるなあ。

グランドキャニオンは想像以上にすごかった。近くの飛行場jからヘリコプターに乗り、林の上を飛んでいくと、どーんと大渓谷が眼下に広がっていた。カメラ3台でパチパチと忙しい。このような壮大な大自然は日本にはない。不況、なんぼのもんじゃと思ったね。

アメリカの魅力は、都市ではなく大自然です。グランドキャニオン、ブライスキャニオン、ザイオン・・・いいところがいっぱいあります。

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大阪出張、友人との40年ぶりの再会、スパイス取材

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スラゥエシ島(インドネシア)で見た丁子

先週の土曜日、久しぶりに大阪「出張」。取材ではなく「出張」だ。今年、僕が好きなある国の広報の仕事をするようになり、大阪のテレビ局スタッフとの打ち合わせがあったからだ。要するに、その番組のために、こちとらの協力体制と、航空会社の条件、旅行会社の協力などなどを話し合った。

そのあと、大阪の有名雑誌「大人組」の編集部へ。このシニア世代向けのビジュアルな雑誌に、コラムを書き始めて3年以上になる。次号で50号記念号となるので、旅の話をしてほしいという連絡があり、タイミングよく大阪出張があったもんだから、編集長に会いに行ったわけだ。2時間ほど、旅の穴場、持ち物などをしゃべった。
3月10日発売だそうだ。

その後、大阪の漢方薬局のH夫妻に案内されて、お好み焼きを食べに行った。美味満点。これを食べたら、他の店に行く気がなくなったなあ。仕上げは、ちょいと危ないバーへ。

翌日は、高校時代の友人O君と40年ぶりに会った。彼はサイトで故郷の情報を検索していて、僕のブログに突き当たったという。いやあ、懐かしかった。彼とは小学校、中学校も一緒だった。現在、建築事務所を開き、大学で建築学の講師もしているという。

ランチは難波で、僕の友人の水中カメラマンT君も交えて。それぞれ一匹狼なので、話は面白い。T君とは10年ぐらい前にマレーシア取材で知り合った。当時、マレーシアは年に1回、世界中の旅ジャーアナリストを40人ぐらい招待していた。俺らは東京代表、T君は大阪代表だった。彼は高知の四万十川河口出身で、四万十川の鮎の生態の撮影をライフワークとしている。また、シンガーソングライターとしてCDも出している多才な人だ。

帰京した翌日は、雑誌の仕事でスパイスの講習会に行き、スパイスがいかに体にいいかの話をじっくりと聞いた。僕は、インドネシアのモルッカ諸島などでスパイスを取材し、交易品としてのスパイスに大変興味がある。つまり、スパイスを媒介とした東西交流、海のシルクロードのことですわ。

17世紀からの東南アジアでの、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスとのスパイスを巡る攻防戦。つまりインドネシアの島にある丁子(クローブ)とナツメグの争奪戦だった。結局オランダが制することになる。オランダとイギリスとの小競り合いには、両国の軍隊に日本人傭兵がいたという。ベトナムやフィリピンなどの東南アジアの日本人町にいた日本人が応募したのだろう。この話は、亡くなった作家・新宮正春氏から聞いた。いつかこのネタで小説を書きたいね。

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変なメールが多いんです、最近。

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↑東京タワー近くの増上寺境内で

昨日今日と温かい。20度だぜ。変な天気だね。この陽気で梅も元気づくだろうね。

変といえば、ホームページとかブログを公開していると、時々不思議なメールが来るんだよね。このコラムのタイトルは、なんや宇能鴻一郎の小説みたいだけど。「私、最近こまっているんです。変なメールが来ちゃって」なんちゃって。

あなたの弟子にしてほしいとか、ブログの話に書かれていた人は私の知りあいだとおもうけどメアドを知らせてくださいとか(僕のブログ、08-10-27を読んでみてください)、来月南米に行くので情報を教えろとかね。弟子にしてくれとメールを書いて寄こした立命館大の女子学生、俺がギリシャ取材の前日に一生懸命書いた返事には、ちゃんと返事をしなさいな。それが大人のルールってものだろう。

それらのメールには「愛」はないのね。○○様(俺らのこと)。初めまして、自分はこういうもんです。あなたのサイトでこんな記事を見つけました。こういうことについて教えていただきたい、なんて謙虚な姿勢がない。もちろん、ネットならではのいいメールもある。熊野古道を旅した人が僕のサイトを見つけてメールをくれるとかね。

以前、このブログにタモリと写真家浅井慎平さん、僕とのエピソードを書いたら、読んだ人からこんなメールが来て、僕はぶっとんでしまった。その内容は・・・

「過去にタモリさんとの遭遇があったこと羨ましい。でも、人生が空しくて、寂しくて、たまらなく侘しくなってしまっている私を、タモリさんは唯一、“生きてるのも悪っきゃない”と瞬間、楽しく思わせてくれる人なのです。しょっちゅう、タモリさんとの夢をみます。そしてタモリさんの独特の優しさに触れ、ほんわかと、とても素敵な気持ちに浸れて、次の一日は幸せ気分で過ごします。ですから、どうかタモリさんを呼び捨てにしないでください」

どうも、僕がタモリを呼び捨てにしたのが気にくわないらしい。しかし、知り合いを呼び捨てにしては悪いのか。

ほいで、先日、こんな変なメールが届いた。
「前略 今掲載されている私のことに関しての物は全て、大至急削除願います。よろしくお願いします」。

おい、ちゃんと自分を名乗れよ。最初の○○様、初めましてもなし。自己紹介もないし、結末に自分の名前も書いていない。

発信者の名前から女性と分ったが、なんや芸名みたいでリアリティがない。この女性、俺らにはまったく心当たりがないんだよなぁ。どこそこの、この箇所の記事が気にくわないと言われればわかるけど、探しようがない。最近、こんなぶしつけのメールが多いんだよな。

以前、ルール無視のメールが来てこのブログで批判したので、ひょっとするとその女性かいなと思い、名前をチェックしたけれど、そうでもない。うむ。僕は新手の詐欺かいなと思った。このメールに過激に反応すると、こちとらのメールアドレスを確認され、その後ややこしいことになる・・・

で、放ったらかしにしていたところ、友人の写真家S君から電話がかかってきた。「サイトの削除の件なんですけど・・・、ごうさんのサイトにアップしている僕のメルマガを全部削除していただけませんか」。彼に名前を削除してほしいという女性からメールが来たそうだ。名前を聞くと、僕にメールを送ってきた女性と同じ名前だった。

S写真家は沖縄で巨石信仰の深遠さに目覚め、ずっと日本のみならず世界の石信仰を取り続けている。今年、世界の巨石信仰を撮影するために、美人の新婦と世界一周をする人だ。僕は彼のメルマガを僕のホームページにアップしてきた。

国内の石信仰を撮影するために車に寝泊りしながら、各地で写真展や講演会を催してきた。ここからが今回の趣旨ですよ、皆さん。

で、彼が東京に戻ってきたときに講演会をやったわけや。彼は優しい人で、彼のメルマガに、講演にきてくれた人の名前をすべて列挙し、「みなさんの援助のおかげで、旅が続けられます」の精神で、感謝の意を表明した。4年前の話だ。

今回のクレームは、このS氏のメルマガに載っている「私の名前」を削除してくれという依頼だったのだ。みなさん、単なる名前だけですよ。彼女は数十人の彼の講演会への出席者のひとり。名前のみ。発言内容など何も載せていない。その会に出席したことが知らされたのが気にくわないらしい。別に「憲法9条を守ろう」のような、ちょいと政治的な会でもないのになあ。

S写真家からの電話の数日後、その女性から、配達証明付の手紙が僕の元に届いた。
「私の名前を大至急、削除してください」とのこと。筆跡や書き方から、60代(多分)の社会的なことに興味があるオバサンと推測した。

僕はなんやらかんやら和歌山県という気持ちで、僕のサイトを作ってくれたN君に電話し、S氏のメルマガすべての号を削除した。もちろんS氏の承諾済みだけど。世の中には、こんな人もいるんだねえ。故郷の熊野の言葉でいうと「かまってほしい」のかいの。寂しいのかいのう。

サイトに人の名前をアップすることにはナーバスになれ。というレッスンだと、僕は思った。


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ラジオで推理

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↑コロラド州ボーダーで

僕がラジオにいかれている話はこのブログでも再三再四書いたのだけれど、しかし聴くのはベッドの中だけだ。事務所でもラジオはほとんど聴かない。時々、原稿執筆のバックグランドとして、AFN(昔のFEN)をかけるぐらいかなあ。

そのラジオの楽しみのひとつは、スイッチを入れたときに聴こえてくるゲストの声、話す内容から誰であるかを推測するゲーム。テレビと違い顔が見えないから、声に神経を集中していろいろと想像を張り巡らしながら、あの人かいな、いや違うなどと推測する。これはなかなかの知的ゲームだ。ピタッと当たったときは、思わず布団の中で「やった!」と、にんまり。

子どもみたいな単純な遊びなのだけれど、こういうことって、脳の活性化に役立つにちがいない。やはり日ごろの好奇心と読書量が決め手だね。

一昨日、朝4時過ぎに目を覚ました。還暦を過ぎると、朝4時頃に目が覚めることが多い。すぐNHKの「深夜放送便」にダイヤルを回す。朝の4時からは、1時間のインタビューの時間があり、芸術家や俳優、音楽家、学者、宗教家、ボランティアなど、興味ある人物が登場する。ロングインタビューなので聴き応えがある。僕はこれが好きなのだ。みなさん、ラジオを聴きましょう。僕は[ラジオ聴きましょう推進委員会]の広報部長なのだ(ほんまかいな)。

その日、インタビューはすでに始まっており、その日のゲストはだれだか知らない。老人の声が聞こえてきた。彼を仮にA氏としましょう。A氏は満州からひとりで日本に帰ってきて江田島の海軍兵学校に入ったとしゃべっている。江田島にいたときに広島に原爆が投下された。敗戦。その後、上京し上野でホームレス生活や、池袋のテキヤの親分に気に入られ、その後は闇屋生活・・・。その間、ドフトエフスキーの著作を読み耽ったとA氏は淡々と話している。僕はこの辺から、このゲストはひょっとすると中央大学名誉教授の木田元氏じゃないかと推測した。

話は続く。山形県新庄市の親戚を頼って疎開、家族が満州から帰国してきて一緒に生活をする。農業学校へ入り、ハイデガーの著作に遭遇。魅せられ、東北大の哲学科へ入学したなどと話している。

木田教授は哲学者でハイデガーの研究家として有名。僕は、彼の本を2冊ぐらい呼んだことがあり、「闇屋になりそこねた哲学者」(晶文社)などの著作を知っていたからだ。

話を聴いていると、キルケゴールやニーチェ、ハイデガー、サルトルの話がぼんぼん出てくる。僕は木田教授に間違いないと確信した。番組が5時前に終わり、今日のゲストの紹介があった。やはりピンポン。木田教授だった。少し幸せな瞬間だった。いい気分で再度眠りについた。

起きるとすぐに、町田の本屋で「哲学は人生の役につのか」(PHP新書)を買った。経歴がユニーク、言っていることも面白い。今読んでいる最中だけれど、今までのどんな哲学入門書より、僕にしっくり来るようだ。

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メルハバ♪

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↑ボスボラス海峡を望む元王宮だった「チュラーン・パレスホテル・ケンビンスキー」から撮影。

「メルハバ」とはトルコ語で「こんにちは」の意味。縁あってトルコの仕事をするようになりそうです。昨日からトルコ語を学習し始めました。トルコ語は日本語と同じウラルアルタイ語族で、日本語と全く同じ語順です。文法的には、日本語の発想と全く同じというのは楽だわねえ。

ぼくは今まで100カ国回りましたが、トルコほどの親日国は知りません。6回訪問しましたが、いい国で、好きな国のひとつです。トルコ人が日本を好きな理由はいろいろとあると思います。

ひとつは、トルコ共和国建国の父であるケマル・アタチュルクが近代化の手本として日本を参考にしたこと。2番目に、ロシアの南下政策でトルコはいつもナーバスになっていたが、極東の小国が日露戦争でロシアをやっつけたという歴史的事実があります。トルコの首都アンカラには、時の東郷元帥の名前を付けた「トーゴー」という高級靴店があるそうです。

3番目には明治時代に、明治天皇に謁見にきたトルコの海軍船「エルトゥールル号」が横浜港から神戸に向かう途中、我が故郷の串本沖で座礁、沈没。そのとき、大島の島民は献身的に、660名の乗組員のうち69名を救助する。島人は生存者に献身的な介抱をし、衣類や食事を与えたという。その美談はトルコの小学校の教科書にも載り、トルコで連綿と語り継がれてきたと、聞いたことがあります。

そのとき日本では義捐金などがあつまり、山田寅次郎という人が、代表でトルコに渡り義捐金を渡したそうだ。その彼の伝記である「明治の快男児トルコへ跳ぶ」(現代書館)が先日発行されました。

トルコ人には親切を受けると、必ず恩返しするという国民性があります。今度は日本がトルコに助けられることになりました。時は1985年3月、イラク・イラク戦争のとき。イランには215人の在留邦人がいました。イラクは3月19日20時以降、領空を飛ぶ飛行機は撃ち落すと言明。日本やアメリカの航空会社は国際航空法上、救助飛行を拒否したそうです。

そのとき果敢にも飛行機を提供したのがイランの隣国トルコでした。日本人を乗せた2機のトルコ航空機がイラン上空を飛び去ったのはタイムリミット3時間前だった。

エルトゥールル号が遭難した大島には慰霊碑とトルコ記念館があり、トルコから駐日大使が着任すると必ず大島を訪ね献花するという。現在、トルコから水中考古学の専門家が大島に来て、潜水し遺品を収集しています。串本町とトルコは今も草の根の民間外交が続いているのであります。

日本とトルコのこんな関係を、和歌山県観光大使として、もっと皆さんに知ってほしいと思います。


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赤いパンツ

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先日、還暦を迎えた。俺が還暦?という感じですわ。大阪の日高薬局の大将から、お祝いの、ド派手な赤いパンツが届きました。台湾で手に入れたとのこと。大将、おおきによ。エフカリスト、タック、ダニャバッド♪

この赤い色と、書かれている「財源●●●」という立派な漢文を見ていると、それだけで興奮しますなあ。昔、子どものころ、還暦といえば「お爺さん」というイメージが強かったが、自分が還暦の歳になるとはねえ。今も信じられないです。

こちとら60になっても元気。昨年も病院に1回も行かなかった。23年間病院に行っていないことになる。僕は、年齢の8掛けが現代人の年齢やないかなと思っています。つまり。60歳は48歳、50歳は40歳というようにね。やりたいこともいっぱいありまっせ。あんまり公にはしたくないけども、グアテマラへの短期スペイン語留学とか、ニューヨークマラソンを走るとか(すでに4回フルマラソンを完走)、10カ国語をしゃべる(笑い)とかね。

実は、友人たちが僕の還暦パーティを祝ってくれると飲み会を企画してくれたのだけれど、妻の親父さんが亡くなり、僕の誕生日の日がお通夜だった。これも縁でしょう。当然、飲み会は先送り。2月に入ったら、みんなに呼びかけてやろうと思う。

昨夜、紀伊半島の高校時代に日本史を習ったF先生と40年ぶりに再会した。山口県から仕事で上京するので会いたいとの、先生の年賀状で実現したもの。高校時代の同級生を4人呼び、新宿でささやかな宴。高校時代の昔話で盛り上がること。先生の記憶のよさにびっくりした。教師をやっていていちばんの楽しみは、教え子と会うことと、僕の爺さん(元教師)に聞いたことがあるけど、F先生は楽しんでくれたかな。

  大寒に赤いパンツをかぶりけり
  還暦の仲間の皺の三寒四温
  大寒に足の細さは父に似て
大寒に恩師の訛りそっと聴く
  会う恩師眉毛の色は白雪か

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ラジオ讃歌

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↑ナッシュビルの「グランド・オール・オープリー」会場。カントリー&ウエスタンの殿堂

前回の続き。
僕はラジオをこよなく愛している。というのは、かつてラジオによく出演したおかげで、ラジオ番組作り手の真摯さをよくわかっているからだ。テレビ製作のスタッフは概していいかげんな連中が多いが、ラジオ製作の人間は雑誌や単行本の編集者と感じがよく似ている。会って話すと、同じくうきかんが漂う。だからラジオが好きだ。

移動中にAFN(昔の駐留軍放送のFEN)を聴くために、携帯用の小型ラジオはいつもカバンに入れている。地震などの緊急時にも役に立つと思うからだ。

事務所では日中は聴かないが、ベッドの中では毎日聴いている。ベッドでよくダイヤルを合わすのは、22時のTBSラジオ「アクセス」。この番組は、時事テーマについて電話討論し、ジャーナリストや評論家がそれについてコメントするというもの。

朝方早く目が覚めると、4時からのNHK深夜放送便のインタビュー番組だ。芸術家や宗教家、ボランティアをやっている人などに1時間インタビューするという内容。

そして6時半からのTBSの森本毅郎の番組で、8時前には文化放送にちょこっとダイヤルを合わせ、武田鉄也の「朝の三枚おろし」を聴いている。武田がいろいろな本を紹介するのだが、なかなか切り口というか視点がいい。

そのあと8時半から文化放送の「くにまるワイド」を聴く。僕はこの番組も毎日9時過ぎまで聴いて、出社する。大きな声では言えないが、朝方の文化放送の番組の吉田照美はテンションがやけに高く、話す内容もイマイチなので僕は嫌いだ。

写真は、ナッシュビルのライブハウス。いわゆるカントリー&ウェスタン音楽の聖地だ。この中西部のカントリー&ウェスタンミュージックが全米的に広がったのは、ナッシュビルのライマン公会堂で「グランド・オール・オープリー」という公開音楽番組が、ラジオで流されたからだ。場所は移転(写真)したが、現在も番組は続けられている。

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太宰治,生誕100年

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↑サンフランシスコ港

ここんとこずっと毎朝6時半から、TBSラジオ「森本榖郎」の番組を聴いている。還暦近くにになると早く目が覚めるようだ。他の局の同じ時間帯の番組と比べると、レギュラーのセレクションがはるかにいい。世界情勢から環境問題、文学、映画、書評まで幅広い人材をゲストに選んでいるからだ。

TBSのこの番組で僕のお気に入りゲストは、環境が専門の月尾東大名誉教授と、詩人の荒川洋治さんだ。荒川さんは毎週火曜日の午前8時に登場する(彼は僕と同じ世代で、若い頃彼の詩を読んでいた。今も彼の詩集を持っている)。

荒川さんは早稲田の文学部の教授でもあるのだけれど、番組では、辞書の話、刊行予定の世界文学全集の裏話、地図帳の話、日本各地の文学館の話など、出版界や文壇にまつわる話が多い。専門の詩の話はまだ聴いたことがないなあ。

照れながら、とつとつと福井弁でしゃべる荒川さんに好感を覚える。時々、森本キャスターが突っ込みを入れ、それはそれで面白い。

昨日、ベッドで荒川さんの話を聴いていて、ちょいとびっくりした。へええ、ちっとも知らなかったぜ。彼曰く「今年は太宰治と松本清張の生誕100周年で、いろいろなイベントが行われますよ」と言った事。太宰と清張が同じ歳だなんて、想像したことすらない。

いかにも文学青年という苦悩に満ちた太宰の若い顔、一方、唇の厚い苦労人の往年の清張の顔。知らないうちにこの顔の写真が、こちとらの脳に刷り込まれていたんだ。

ほかに、今年生誕100年を迎える作家は、「死霊」の埴谷雄高、「俘虜記」の大岡昇平、「山月記」の中島敦など、そうそうたるメンバーが並ぶ。ほかに1909年生まれの有名人はいないかと探してみると、あります、あります。映画評論家の淀川長治、俳優の上原謙、益田喜頓、杉村春子、田中絹代、写真家の土門拳、漫画家の横山隆一、プロ野球監督の水原茂、クラリネット奏者のベニー・グッドマン、経済学者のドラッカー・・・。みんな「同級生」だ。

それにしても、太宰が清張と同じ歳という事実には、まだぴんとこない今日この頃です。

そういえば、元旦の朝日新聞の全面広告(新潮社だったか)、太宰と清張の顔写真が大きく出ていたなと思い出した。そのときは気がつかなかったけど。出版社では、この2人の作家をセットにして、今年売り出す予定らしい。

作家清水義範が二人に乗り移って創作した(でっちあげた?)「生誕百年 太宰と清張の架空対談」が面白い。いかにも太宰、清張が言いそうなことを「対談」にしていて面白い。

http://sankei.jp.msn.com/culture/books/090104/bks0901040854000-n1.htm

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新春大吉

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↑インドネシア・スラウェシ島の日の出

明けましておめでとうございます。本年も我が「旅志貫徹」をよろしくお願いいたします。

いつも訪問してくださる、C坊さん、M久保さん、K野さん、U野さん、U島さん、W賀さん、Sめぐさん、仏師さん、キヨさん、トシさん、遊走人、オッカン・・・その他、たくさんの皆さん、今年もよろしくね♪

今年のお年玉として、ipodの安いのを買いました。遅いipodデビューです。音楽を聴くというより、英語とスペイン語の勉強のためです。さっそく、英語のCDなど30枚ほどをインポートしました。しかし語学のCDだけではつまらないので、息抜きとしてクラシックやジャズ、オペラ、演歌なども入れました。

このipodは切手2枚分のちいさなツールです。ほんまにこんな小さな器械にCDが30枚も入ると感激です。僕はシャッフルといモードにしました。次に何が出てくるかわからないという、スリリングなものです。シェークスピアの英語の台詞のあとに、北原ミレイの「石狩挽歌」が聞こえてきたりして、面白いのです。

大晦日の夜、僕はベッドでこのipodを聴いていました。最近手に入れたCD、それはアメリカの「村上春樹」というべき、人気の作家ポール・オースターの肉声の朗読と、沢木耕太郎や小川洋子、柴田元幸らの日本語の朗読が入っている優れものでした。

僕は、ベッドで、東大教授の英文学者・柴田元幸が日本語で朗読する、ポール・オースターの「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」を聴いていました。ニューヨークのブルックリンにある葉巻屋の若い青年のクリスマス・ストーリーで、いかにもオースターらしいこじゃれた素晴らしいニューヨーク・ストーリーでした。ぼくの好きな、ニューヨークの光景が瞼に浮かんできます。

で、ええ話やと感激に浸っていると、次にipodから聴こえてきたのは、この音楽でした。ぼくの好きなやつ。スティービー・ワンダーの「I just called tosay I love you」でした。物語がこの曲に集約されていくようで、あまりのタイミングのよさに、僕は拍手しました。一気にニューヨークの街並みの映像が頭を過ぎりました。これでこの物語は、僕の頭の中で完成したと・・・。

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年も迫りましたね

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今年もそろそろ終わりですね。1年が早いなというのが実感。今年も僕のブログを本文してくれた方々に感謝申し上げます。

今年の日本の置かれた状況を見ると、幕末のような状況のように感じて仕方がありません。黒船はサプライム問題とパラレルでしょう。

  年末や幕末の凶この頃
  麻生区にも北風くち曲がる
  除夜の鐘ベッドの父に共鳴す

来る2009年もどうぞよろしく。よいお年を。
これから年賀状書きです。

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高校の同級会

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↑みんな、歳とったなあ

先日、故郷の熊野勝浦温泉で高校時代の同級会があった。高校を卒業して40年ぶりの、初めての同級会だった。こちとら仕事が忙しく出席はできなかったが、昨日幹事のS君から同級会の写真や記事がかかれたパンフレットが送られてきた。

S君によると同学年160人が出席したという。僕たちが高校に入った1964年は東京オリンピックの年。団塊世代のど真ん中なので、生徒は多かった。同じ学年だけで600名ぐらいの生徒がいたと思う。僕の組のみんな白髪も増え、それなりの歳の取り方をしているね。40年ぶりに見る懐かしい顔に「ほうほう」といいながら見いりましたで。次回は参加しますよ。

今月は、ロンドンで出会った仲間2人と会うことができた。これも38年ぶりだった。ロンドンにいるときに、我々はタブロイド新聞で、三島由紀夫の自決を知った。いやあ懐かしいですわ。

今考えているのは、マドリッドのユースホステル(YH)宿泊者のOB会。1970年にこのマドリのYHには、日本人バックパッカーの間で有名な「番長制度」があった。マドリのYHは「カサ・デ・カンポ」と呼ばれ、兵舎のような家が並んでいた。

ドイツのYHにある門限などなく、1日中オープン。しかも食事がよかった。毎晩ワイン付きのディナー。そんな噂を聞いて、ヨーロッパから日本人バックパッカーが集まってきた。管理人は、フランコ支持者の右翼のドメスという親父だった。

夏に北欧で皿洗いしてお金を稼ぎ、冬に温かい南欧に下ってくるというのが、当時のバックパッカーの定番だった。僕は北欧で働かず、北欧からずっとヒッチハイクをしてギリシャへ。そこから地中海を船でフランスのマルセーユに行き、汽車でバルセローナに向かい、ここで、アントニオ・ガウディ、ピカソとミロに敬意を表し、マドリッドに入った。

このYHに長く宿泊している奴が番長を襲名する。ぼくは2代目番長だった。番長はそこそこの権限があり、新入りがあれば、歓迎のパーティを催し、あるときには、間取りの蚤の市での店の出し方を教授し、またあるときには、可愛いいセニョリータがいる大衆食堂へと案内する。初代は四日市出身のT君。当時18歳だった。

ネットを探していると、8代目番長を中心とした「マドリッド番長会議」を見つけた。さっそく連絡を取ると15人ぐらいの会員があるという。

僕は、すぐに入会を申し込んだ。この会のメンバーのなかにはボランティア精神旺盛な人がいて、カンボジアに小学校を作る運動をしているという。番長会議は彼を支援して、カンボジアに立てた小学校をみんなで見に行くために、積立貯金をしたりしている。

今、1970年の旅と紀行文の書きかたの本を執筆中だ。本が世に出る暁には、1970年代のバックパッカーを集めて、盛大なパーティをしたいものだ。旅先で1夜しか会っていないが、再会したい人がたくさんいる。そういう人を集められたら面白いだろうな。

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「007は2度死ぬ」日本ロケ

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↑007と浜美枝の「結婚式」が行われた那智大社

先日、朝日新聞の夕刊を読んでおったら、「高校休んで映画ロケ」と大きく出ていた。埼玉県本庄市で、今月3日に撮影された映画「ルーキーズ」の撮影に、東京からの参加も含めて地元の640名もの高校生や若者が学校を休んで参加していたらしい。

ぼくはニヤリとした。
というのは、高校3年生の夏、僕も学校を休んで映画のエキストラに出たことがあるからだ。あの「007は2度死ぬ」の日本ロケが敢行され、わが故郷の那智大社で、007とボンド・ガールのキャッシー鈴木(浜美枝)の結婚式の撮影が行われた。

007が日本の漁村に忍び込むための偽装結婚式という設定。余談だが、ザジズゼゾの発音がでjきない熊野人は「デロデロ・セブン」と言っていた。日本史の教師に授業で「土曜日に学校を休んで映画に出た奴がいる」と茶々入れられたけど、問題は全くナシ。クラスメートなどは「おい、国際的俳優!」などと笑わせてくれた。

土・日曜日の撮影で、僕は学校を休んでエキストラとして参加した。物好きな親父も参加。「学校の授業より、イギリスの映画の現場を見ておくほうが、将来のためになる。授業を1日休んでもすぐ取り返せる。しかしイギリスの映画の体験はちょいとない」とか言っちゃって、親父はエキストラに申し込んだ。かなりの狭き門だったように思う。うまい具合に、2人とも選ばれた。

そのときの我々の役柄は鈴木家(浜美枝がお嫁さん)の地元の親戚という設定で、紋付羽織袴を着て「仕事」をした。神殿の前方にお年寄りが座り、僕たち若者は後部へ。撮影のオッケーが出るまで何回も取り直しがあった。照明のライトがこんなに熱いもんだ、初めて知った。

撮影中は、境内には一般の人は立ち入り禁止だったが、紋付羽織袴を着ていれば、顔パス。当時外国語系の大学に進もうと思っていた僕は、ここ幸いにとイギリス人スタッフと英語で話をした。コックリー訛りのイギリス人スタッフが多く、リスニングには苦労した(今も僕のリスニングは問題ありだけどね)

こないだ亡くなった丹波哲郎さんは「タイガー田中」という秘密警察という設定だったが、ボンドとの台詞や、スタッフとの会話で話す英語のうまかったこと。背も高く、実に堂々としていて、ああなりたいと思ったもんだ。後で聞くと、米軍の通訳をやっていたそうだ。

で、映画が日本で上演されたので見に行ったら、ほとんど映っていなかった。神殿の後ろのほうで、黒くもやもやした集団が俺たちだった。けど、面白い体験で大変満足した事を覚えている。出演料も3000円(食事つき)と高給。今から40年前の3000円だもんね。親父と勝浦温泉で鮨を食べて帰った記憶がある。

伊丹十三監督が元気なころ、友達のカメラマンに誘われて「静かな生活」という映画にエキストラ出演をした。友人は、この映画のポスターやカタログの写真を撮っていた。「ちゃんとした機材を持っているカメラマンやジャーナリストを監督が探している。エキストラでも本物を使いたい」とのことで、こちらは喜んで撮影現場の広尾の三井倶楽部に行った。官邸詰め記者・カメラマンの役なので、ネクタイを締め、白いコートを着て撮影に臨んだ。

ここを首相官邸とみなして、ポーランドの大使が入ってくるシーン。そこに群がるカメラマンやレポーターという場面で、俺はその群れの真ん中でストロボをどんどんたいてくれと注文された。押し合いへし合いしながら写真を撮る。やっているうちにエキストラ諸君も乗ってきて、かなりの緊張感が生まれた。これは取り直しが少なく、すぐにロケは終わった。

その後、有楽町の映画館で試写会が催された。どこに登場するのかいな、と見ておったら、開始から45分目に俺が登場。今度ははっきりと自分の顔が確認できましたです。いい演技でしたよ、ハイ。

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再彩斎・熊野の旅

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↑七里御浜

昨夜、故郷熊野の旅から帰ってきました。今年5回目のわが故郷訪問でした。先週金曜日(12月5日)の夜行バスで故郷に帰り、親父の7回忌の法事に出席。北風が吹き、お寺での読経のときは寒かった。そのあと住職とともに親父の墓へ向かいました。

親父の墓は作家中上健次の墓のそばにあるので、墓参りするたびに中上先輩の墓に手を合わすことになります。日本各地から中上文学ファンが訪ねてくるので、いつも花や日本酒、タバコなどが供えられていて、彼の人気のほどが分ります。

さて、墓の前で線香を点けようとしたら、ライターのオイルが少なく、悪いことに風が強く、けっこう往生しました。なんせ、我がファミリーにはタバコを吸う人がいないので、ライターやマッチがないんですわ。悪戦苦闘の末、やっと線香に火をつけることができました。その顛末は愚弟のブログ http://blog.livedoor.jp/quanpo/を覗いてみてください。彼のブログには、ほかにディープな熊野的世界が描かれています。

思い起こせば6年前の暮、「親父が危ないので、早く帰ってきて。年を越えることができるかどうか」という愚弟からの電話をもらい、すぐに帰郷しました。結局、新年の9日に親父は他界。南洋兵士は永遠の眠りにつきました。今までに3回死にかけた親父の最後の旅立ちでした。

親父によると、1回目は小学生のときに川でおぼれ、ほとんど死にかけていたそうな。たまたま川のそばを牛を引いたおじさんが通り過ぎ、その人に助けてもらい、体を牛の背中に乗せられたそうな。骨のでこぼこによって、飲み込んだ水が一気に出て生き返り。

2回目は、ニューギニア戦線へ出向き、乗っている駆逐艦が米軍の攻撃を受け、脚を負傷しトラック等の病院に送られる。ニューギニアでは日本軍は壊滅。戦友はほとんど死んだが悪運強い親父は、脚を撃たれたために命拾い。

3回目は、日本に帰ってきて広島の呉の鎮守府にいるときに、原爆に遭うが距離が離れていたために、これまた命拾い。もう1回ぐらい、死にかけたことがあったと思いますわ。親父に言わせると、死に間際に三途の川から、「こっちに来い」と手招きされたが、必死に行かないでいると目が覚めて往き返ったと言ってました。

7回忌には親族13名が集まり、故人を偲びました。知的好奇心旺盛な、よく働く親父でした。叔父も伯母も元気で、子どもや孫の話などで盛り上がりました。

点滴の液青む今山眠る
山眠る血圧計にも傷があり
わたくしの股引き細し父に似て

そのあと、友人のうどん屋の大将を訪問、天下国家を熱っぽく語り合いました。夕方には隣の三重県の熊野市に移動し、ホテルにチェックイン。友人3名とホテル近くの居酒屋で飲みました。古くからの友人は、話がツーカーなのでいい。

翌日は、熊野市教育委員会主催の講演会で、俺らが講師。開始の2時まで時間があったので、市のスタッフのMさんと熊野古道を少し歩きました。

岩の苔風と影の遊び場所

松本峠に行くと、天気がよかったので七里御浜がくっきり。熊野川まで23キロも続く美しい海岸線です。前方に今年歩いた那智山や、太地の燈明崎まで見渡すことができました。

いままで何回も松本峠に行ったが、こんなに透明感があった記憶はない。素晴らしい冬の1日でした。 写真は、その松本峠から見た七里御浜。左端の岬が捕鯨で有名な太地の燈明崎、山並みは、今年歩いた那智の妙法山や大雲取がくっきりと屹立しています。

その感動を、中原中也風に、パロディの詩を書いてみると・・・

天使が綿菓子を食べ、青空が海に移住し
白い斑が海面を漂っています

そこから茸のにおいがして、冬の日の熊野灘は穏やかです
遠くに燈明崎が霞んで見え、黒い瓦が静かにダンスを踊っています

トンビが舞い、これから冬の日の海は夕暮れに向かって前進し
波は自らの血脈に戻り、血のリズムと同調します

おお、なんという宇宙のリズムよ
みかんの香りがする風を呼吸し
霊魂は後に残って

ポケットに手を突っ込んで、冬の山を眺めていると
父の映像が気になりだします

すぐ下の道を自転車が通っていきました
今日一日、銀の風
天使の水遊びの優雅さよ
行ってらっしゃい 行ってらっしゃい
空を見上げる私のまなこ

講演はうまく行きました。タイトルは「海外旅行40年、今ここにいる幸せ」。愚弟いわく「アニキ、いつから宗教者になったん?」。確かに、新興宗教の講演会にあるようなタイトルやねと苦笑い。出席者の平均年齢は65歳ぐらいかな。現在、年配者の知的好奇心がすごいね。僕の漫談をしっかりとノートを取理ながら聞いてくれました。感謝多謝♪
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講演が終わった後、紀勢線で亀山へ。ここのホテルで滋賀県近江八幡に住むD君と合流しました。彼は1年のうち半分はホノルル生活という贅沢な身分です。ホノルルのロータリークラブのメンバーとして活躍中ですわ。今回、彼と二人で仏師のI君を訪問し、酒を飲みたおしたろやないかい、というもの。

僕たち3人は、いまから38年前にロンドンの安宿で出会った。ともに同じ年齢で大学生でした。仏師I君は学生時代から手先が器用で、ロンドンでは皮を買ってきて、よくカバンなどを作っていました。今や仏像を作ることが本業ですが、国宝級の仏像の修理修復で名を成しています。しかし、仏師になるとはまったく想像しなかったなあ。彼も僕が紀行作家になることなど予想だにしていなかったでしょうけど。

3人がロンドンで会ったころに、三島由紀夫の割腹事件が起こり、一緒に朝日新聞のロンドン支局に朝日新聞のバックナンバーを見に行った記憶があります。まさに3人で一緒に会うのは1970年以来でした。ともに白髪が増え、髪も後退している身。3人の再会と元気に乾杯と感謝♪ 考えてみれば3人とも自由業でした。

仏師のI君とは、ロンドン~イスタンブール~インド・ネパールへと一緒に旅した仲間。ハードでハッピーなアジア・ハイウェイのビンボー旅行でした。彼のアトリエは滋賀県の甲賀市の郊外の、素敵な環境の中に建っていました。家の前が溜池で、これを借景としているわけですわ。

僕が当時のアルバムを持って行き、ロンドンでの安宿生活、アジアハイウェイでのヒッピー旅行などの写真を肴に飲んだ日本酒の美味かったこと。友に酔い、話に酔い、酒に酔った一夜でした。午前3時まで語り合いました。

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「ここの山中にMiho Museumという、素敵な美術館があるので案内したい」というI君の勧めで、一緒に行きました。いやあ建物も展示物も素晴らしい。設計のコンセプトは「桃源郷(シャングリア)」。陶淵明の「桃花源記」に描かれた物語を、信楽の山中に再現したというわけです。

これは滋賀県の財産やね。建物は、ガラスのピラミッド型のルーブル美術館を設計したI.M.ペイ氏。この中国系のペイ氏はワシントンのナショナル・ギャラリー東館も設計しています。このMiho Museumもガラスをふんだんに使い、柔らかい光が館内に充満していました。

展示されている美術品は、メソポタミア、ギリシャ、ローマ、中国の一球品ばかりでした。この美術館は世界救世教系の新興宗教の持ち物ですが、館内には宗教宣伝臭さはまったくなかった。滋賀県に行ったら、ぜひ訪ねたい美術館です。現在、特別展として「川端康成と安田靫彦」の「大和し美し展」を開催しています。お二人の作品や原稿、骨董のコレクションが見ものです。
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タイ通による、タイ情勢の解説

タイ情勢については、なんやらかんやら和歌山県です。何がどうなのか、日本のメディアからでは理解できない。
何でもありのタイ。クーデターは恒例のお祭りみたいで、最終的に国王が登場して、しゃんしゃんと手打ちという感じがしています。が、今回は分りづらい。

そんなとき、友人のドバシさんがメールを送ってくれました。彼は東南アジアを中心としたホテルのレップをしていて、アジア情勢には詳しい。彼の了解を得て、やつがれのブログに転載します。

●タイでメシ食っています土橋です(←鯛茶漬けかな?)。僕としては、PAD(民主主義のための市民同盟)にかなり頭にきています。長引くと思ったら、やっぱりです。

今回のタイの騒動に関し、日本のメディアが正確な事情を十分に伝えないていないので、僕が知っている限りの情報をお皆様にお伝えします。

PADは、あたかも市民団体であるかのようにメディアは伝えていますが、実体はかなり違います。むしろ反民主主義の反市民団体です。外国人とタイの経済を人質にとるやり方は、テロそのものです。これを平然とやりきる民主主義の市民団体などあるわけがありません(←政治団体名を、いかにも民主主義団体のようにするのは昔からの常套手段です)。

彼らの背後は、旧保守勢力、旧伝統的なエリート層、タクシン政権時代の改革で長年持っていた利権を失った旧体質の企業と、利権の構造から甘い汁を吸っていたマフィアたちです。彼らには「公の利益」という言葉かありません。ですから、自分たちの失った利益を取り戻すためには、常識など必要がありません。

PADの政治的な主張は、「国会議員の7割を任命制、3割を選挙で選ぶ」、です。農民は正しい政治的判断が出来ないので選挙権を与えるべきではない、とも主張しています。これで皆さんわかるでしょ(←わかる、わかる)。

2006年PADは相当の金をつぎ込み、軍にクーデターを起こさせるのに成功しました。しかし、時代は旧体制が復活しても国を運営できないことが証明され、1年後、軍は政権を手放し総選挙で民意を問うた訳です。当然タクシン派の圧勝でした。

これでは大金をつぎ込んでせっかくタクシンを追い落とした旧体制派としては我慢が出来ません。彼らは力づくで再度クーデターが起きる状況を作り出そうとしました。それが首相府の占拠です。そして彼らは今「最後の闘い」を行っています。

彼らが言う「最後の闘い」の意味は、選挙をすると必ず負けるとわかっていますので、なんとしても混乱を引き起こしクーデターをもう一度やってもらおうとの魂胆です。そして憲法を改正し、自分たちの理想としての体制を作ろうとしています。夢よもう一度、です。

PADにとって誤算は、これだけの混乱を引き起こしたのに軍が動いてくれないことです。前回のクーデターで軍はPADのお先棒を担ぎ、大きな恥をかきましたので動きたくないのでしょう。軍にはむしろ選挙で民意を問えといわれてしまいましたが、PADとしては絶対飲めない提案です。

空港閉鎖以後にバンコクポール大学は、バンコク市民1080名に緊急のアンケートをとりましたが、70%以上がPADに反対しています。地方の大部分を占める農民はタクシン派を支持しています。

PADの支持者としてデモに参加している人達の多くは、日当500バーツと昼寝と食事付きで集めれられている祭りの好きな連中です。暴力でストレスを発散したいチンピラは率先して参加しています(←いわゆるガス抜きですわ)

今日、タイ憲法裁判所が与党に解党命令を出しましたが、これまたかなり政治的です。ほとんど何も審議せずにです。この判事たちはクーデター時に旧保守体制側の守護者として任命されていますから、この判決は当然ですね。選挙でタクシン派が圧勝したのに、タクシンが亡命せざるを得なかったのもこの憲法裁判所の判事たちがいるからです。

表向きのPADのリーダーのソンティは、以前タクシンの友達でしたが、成功者に対して逆恨みしているとしか思えない。彼を絶対にタイに戻したくない一心でPADのリーダーをやっているのだろう。もう一人の表向きのリーダーのチャムロンは、76年の「血の水曜日事件」の指揮官の一人です。

その後、彼は2度青年将校団としてクーデターを起こしましたが、2度とも失敗しています。今まで悪いことばかりしてきたので出家し、92年のクーデターでは市民側に付きましたが、やっぱり根は悪者です。

今年の8月から首相府を占拠し連日1-2万人の食費を出し続けられるのは、市民団体では無理です。資金源は利権を失った古い体質の華僑企業です。タクシン側も勿論多くの華僑企業がいますが、タイの経済は世界の中の歯車の一つとして活動していることを理解している企業です。

前回のクーデターでPAD側が軍を表に立てて政権を実質運営しましたが、愚策と無策でバーツ高を引き起こしタイ経済に打撃を与えてしまいました。時代は彼らを必要としなくなっているのです。PADに反対する人はその事を理解しています。空港閉鎖による経済的な損失や国家としての信用の失墜は、アナクロニズムのPADには理解できないことだし、理解する必要の無いことです。

4日には国王が何らかの判断を行うと思いますが、旧伝統的エリート層とは日本でいう華族ですので、身内を庇うことになるのか、それとも21世紀に相応しいタイを考えるのか、彼の判断を待ちたいと思います。

●追伸
PADの空港からの撤退でホット一息です。国王の誕生日12月5日の為の一時休戦です。PADにしても、次期政権がタクシン派であることは充分認識しています。

おそらく、疲れたから、闘争資金が不足してきたから、国王からネガティブにいわれるとこの先続けられない、非難が多すぎた、軍が乗ってこない、などの理由で、見かねた憲法裁の助けによって上げた拳を下ろせた、のが実情でしょう。

与党への憲法裁の解党命令が出ても、下院はタクシン派が多数派ですから、野党から首相を出し、野党による内閣はできません。出来たとしても全く機能しません。PADが納得する政府が出来る可能性は極めて低いです。

そうすると、彼らは再度何らかの行動に出るでしょう。その時、これまでおとなしくしていた反PAD側、それこそ本当の市民が怒りの行動に出るのではと思います。

暫らくはタイの政治から目が離せません。


↑タイはすべて国王の裁定待ちの国。今、キングは将棋の名人戦のような長考に入っているんでしょうね。

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秋の熊野古道

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和歌山県田辺市熊野ツーリストビューロー主催によるプレスツアーで、故郷の近くの田辺や熊野古道を再度歩いてきました。今回、東京から5社、関西から3社の記者が集まりました。

中辺路の継桜王子の周辺の紅葉は美しかった。でもほんの一部だけの紅葉でしたけど。今回、本宮大社からの大日越えをしました。約2キロの熊野古道。最初の登りから、けっこう急勾配で、二日酔いの小生にはきつかった(笑い)。行程約1時間半のルートは、簡単に熊野古道の雰囲気を味わうには、なかなかいい。おすすめです。

   紅葉の陰に隠れて山頭火
   かさこそと落ち葉と話す山頭火

田辺郊外では、みかん畑に行き美味しいみかんを盗って、ではなく取ってきました(撮ってきました)。現地のスタッフの皆さんには大変お世話になりました。謝謝感謝、ダンケシェーン、グラー謝ス、キートス、オブリガード、テレマカシ,ダニャバッド、エフカリスト、テシェキュールと10ヶ国語で感謝の意を表明したい。
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「私の上に降る雪は」

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昨日、東京駅近くのホールで『中原中也「私の上に降る雪は」』の朗読公演があり、行ってきました。20年来の酒飲み友達、声優の長谷由子さんがプロデュースしたものです。彼女はテレビなどのナレーションで大活躍なのですが、あの成田空港の搭乗アナウンス「JAL001便、ただいま搭乗手続きをしております」なども彼女の声です。関空への電車の車内アナウンス、JR東海の新幹線グリーン車のオーディオ案内も担当しています。

昨年、僕が仕掛けて長谷さんに朗読の入門書「朗読日和」(彩流社)を書いてもらいました。朗読の入門書と自負しています。この本は気分的には共著のような感じ。本はなかなか好評のようです。

長谷女史とはよく会って飲むのですが、その席で声優やナレーション仲間をたくさん紹介してくれます。ナレーター業界の大御所である槇さんとか、TBS系の「情熱大陸」の名ナレーションの窪田さんは今やダチです。昨年、長谷女史の朗読舞台で、窪田さんは僕の旅のエッセイを読んでくれたこともあります。

今回の公演では、5人(男性2人)が舞台に上がり、進行役の声優が中也の生涯を語るナレーションで進行し、男性ひとり、女性ふたりが中也の詩を、素敵なギターの演奏をバックに、朗読しました。もうひとりの女性は、中也の恋人・長谷川泰子になりきって、和服姿で艶っぽく大正女を演じました。

中也が16歳のときに、京都で女優の卵であった長谷川泰子と知り合い同棲。しかし、彼女は中也の文学仲間である文芸評論家の小林秀雄のもとに行ってしまいます。中也は昭和13年、31歳の短い命を閉じました。

今回の公演は、彼らの師匠で、声優・ナレーター・舞台朗読家である小林恭治さんへの追悼公演でした。

1時間10分の公演で、17もの中也の詩が読まれました。有名な「汚れちまった悲しみに」から始まり、「月夜の浜辺」「サーカス」「夏の世の展覧会はかなしからずや」、エンディングは「別離」でした。特に3人で順番に朗読した「別離」は秀逸で涙が出てきました。頭の上から中也の吟味された言葉の数々が粉雪のように僕の全身を包んでくれました。

言葉の力はすごいですね。僕は父の死を思い出しました。そういえばそろそろ7回忌です。熊野の浜で親父と石投げをしたことや、戦争で行ったニューギニアの話などを思い出しました。

親父、お袋の臨終に立ち会って、2人から「さようなら、世話になりました」ということばは聞こえてきませんでしたが、身体がそう言っていたと僕らは確信しました。

  さようなら、さようなら!
  いろいろお世話になりました
  いろいろお世話になりましたね
  いろいろお世話になりました
         ・
  干された飯櫃(おひつ)がよく乾き
  裏山に 烏が呑気に啼いていた
  ああ、あのときのこと、あのときのこと・・・・・

学生時代に愛読した中也の詩。「サーカス」も「月夜の浜辺」も好きです。朗読を聴いていて、通っていた池袋大学正門前にあった「ゆやゆよん」という食堂を思い出しました。中也好きの元活動家(多分)がオープンした学生向きの食堂で、一種のアジトの雰囲気。僕も時々食べに行ったことがあります。その連想で、久しぶりに大学時代、池袋大学近くの要町での下宿生活を思い出しました。
  
●今日の感動を、文体模写で中原中也風に、いわゆるパロディで表現してみましょう。
        
私の上に降る言葉、空は高く高く 僕は見ていた
黒潮の浜辺にトンビが歌い おがくずの匂いがするよ
親父の背中が世界地図を生み
石を遠くへ投げろというが うまく行きません

センベイがトタンを食べ  熊野の海はまっぴらぴ
海の向こうにあるという セイレンの棲む海に溺れる
珊瑚の海底で泣く 石たちのga gi gu ge go
ポけっとに手をつっこみ 蝋燭片手に神倉山を見る
  
潮の流れよ  風が鳴って
電線がひねもす海で踊っています
さむうい ぬくうい 湯や保温
海は冷たい顔を持ち、魚は珊瑚とダンスかな
ベートベンとシューベルト 空が真っ赤に染まります
空に向かってぴーぴりでぃ 千の天使のキャッチボール

  幾時代かがありまして 青い戦争ありました
  夏の真昼の静かには 南洋兵士は孤独です
  夏の風は椰子の色に染まり マンゴーを食べています
  遠い昔のニューギニア 海行かば戦友は静かです
  今夜浜辺でひと酒盛 空に真っ赤な火の玉だ
  米軍機がワルツを踊り 生暖かいおならを吹き放っています
  
許された一日が終わった今
今日はほんまにお世話になりました
さようなら ほんとにお世話になりました
背中の地図にもさようなら


 充実したいい1日でした。由子さんに感謝、合掌。


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