高校の同級会
先日、故郷の熊野勝浦温泉で高校時代の同級会があった。高校を卒業して40年ぶりの、初めての同級会だった。こちとら仕事が忙しく出席はできなかったが、昨日幹事のS君から同級会の写真や記事がかかれたパンフレットが送られてきた。
S君によると同学年160人が出席したという。僕たちが高校に入った1964年は東京オリンピックの年。団塊世代のど真ん中なので、生徒は多かった。同じ学年だけで600名ぐらいの生徒がいたと思う。僕の組のみんな白髪も増え、それなりの歳の取り方をしているね。40年ぶりに見る懐かしい顔に「ほうほう」といいながら見いりましたで。次回は参加しますよ。
今月は、ロンドンで出会った仲間2人と会うことができた。これも38年ぶりだった。ロンドンにいるときに、我々はタブロイド新聞で、三島由紀夫の自決を知った。いやあ懐かしいですわ。
今考えているのは、マドリッドのユースホステル(YH)宿泊者のOB会。1970年にこのマドリのYHには、日本人バックパッカーの間で有名な「番長制度」があった。マドリのYHは「カサ・デ・カンポ」と呼ばれ、兵舎のような家が並んでいた。
ドイツのYHにある門限などなく、1日中オープン。しかも食事がよかった。毎晩ワイン付きのディナー。そんな噂を聞いて、ヨーロッパから日本人バックパッカーが集まってきた。管理人は、フランコ支持者の右翼のドメスという親父だった。
夏に北欧で皿洗いしてお金を稼ぎ、冬に温かい南欧に下ってくるというのが、当時のバックパッカーの定番だった。僕は北欧で働かず、北欧からずっとヒッチハイクをしてギリシャへ。そこから地中海を船でフランスのマルセーユに行き、汽車でバルセローナに向かい、ここで、アントニオ・ガウディ、ピカソとミロに敬意を表し、マドリッドに入った。
このYHに長く宿泊している奴が番長を襲名する。ぼくは2代目番長だった。番長はそこそこの権限があり、新入りがあれば、歓迎のパーティを催し、あるときには、間取りの蚤の市での店の出し方を教授し、またあるときには、可愛いいセニョリータがいる大衆食堂へと案内する。初代は四日市出身のT君。当時18歳だった。
ネットを探していると、8代目番長を中心とした「マドリッド番長会議」を見つけた。さっそく連絡を取ると15人ぐらいの会員があるという。
僕は、すぐに入会を申し込んだ。この会のメンバーのなかにはボランティア精神旺盛な人がいて、カンボジアに小学校を作る運動をしているという。番長会議は彼を支援して、カンボジアに立てた小学校をみんなで見に行くために、積立貯金をしたりしている。
今、1970年の旅と紀行文の書きかたの本を執筆中だ。本が世に出る暁には、1970年代のバックパッカーを集めて、盛大なパーティをしたいものだ。旅先で1夜しか会っていないが、再会したい人がたくさんいる。そういう人を集められたら面白いだろうな。
「007は2度死ぬ」日本ロケ
先日、朝日新聞の夕刊を読んでおったら、「高校休んで映画ロケ」と大きく出ていた。埼玉県本庄市で、今月3日に撮影された映画「ルーキーズ」の撮影に、東京からの参加も含めて地元の640名もの高校生や若者が学校を休んで参加していたらしい。
ぼくはニヤリとした。
というのは、高校3年生の夏、僕も学校を休んで映画のエキストラに出たことがあるからだ。あの「007は2度死ぬ」の日本ロケが敢行され、わが故郷の那智大社で、007とボンド・ガールのキャッシー鈴木(浜美枝)の結婚式の撮影が行われた。
007が日本の漁村に忍び込むための偽装結婚式という設定。余談だが、ザジズゼゾの発音がでjきない熊野人は「デロデロ・セブン」と言っていた。日本史の教師に授業で「土曜日に学校を休んで映画に出た奴がいる」と茶々入れられたけど、問題は全くナシ。クラスメートなどは「おい、国際的俳優!」などと笑わせてくれた。
土・日曜日の撮影で、僕は学校を休んでエキストラとして参加した。物好きな親父も参加。「学校の授業より、イギリスの映画の現場を見ておくほうが、将来のためになる。授業を1日休んでもすぐ取り返せる。しかしイギリスの映画の体験はちょいとない」とか言っちゃって、親父はエキストラに申し込んだ。かなりの狭き門だったように思う。うまい具合に、2人とも選ばれた。
そのときの我々の役柄は鈴木家(浜美枝がお嫁さん)の地元の親戚という設定で、紋付羽織袴を着て「仕事」をした。神殿の前方にお年寄りが座り、僕たち若者は後部へ。撮影のオッケーが出るまで何回も取り直しがあった。照明のライトがこんなに熱いもんだ、初めて知った。
撮影中は、境内には一般の人は立ち入り禁止だったが、紋付羽織袴を着ていれば、顔パス。当時外国語系の大学に進もうと思っていた僕は、ここ幸いにとイギリス人スタッフと英語で話をした。コックリー訛りのイギリス人スタッフが多く、リスニングには苦労した(今も僕のリスニングは問題ありだけどね)
こないだ亡くなった丹波哲郎さんは「タイガー田中」という秘密警察という設定だったが、ボンドとの台詞や、スタッフとの会話で話す英語のうまかったこと。背も高く、実に堂々としていて、ああなりたいと思ったもんだ。後で聞くと、米軍の通訳をやっていたそうだ。
で、映画が日本で上演されたので見に行ったら、ほとんど映っていなかった。神殿の後ろのほうで、黒くもやもやした集団が俺たちだった。けど、面白い体験で大変満足した事を覚えている。出演料も3000円(食事つき)と高給。今から40年前の3000円だもんね。親父と勝浦温泉で鮨を食べて帰った記憶がある。
伊丹十三監督が元気なころ、友達のカメラマンに誘われて「静かな生活」という映画にエキストラ出演をした。友人は、この映画のポスターやカタログの写真を撮っていた。「ちゃんとした機材を持っているカメラマンやジャーナリストを監督が探している。エキストラでも本物を使いたい」とのことで、こちらは喜んで撮影現場の広尾の三井倶楽部に行った。官邸詰め記者・カメラマンの役なので、ネクタイを締め、白いコートを着て撮影に臨んだ。
ここを首相官邸とみなして、ポーランドの大使が入ってくるシーン。そこに群がるカメラマンやレポーターという場面で、俺はその群れの真ん中でストロボをどんどんたいてくれと注文された。押し合いへし合いしながら写真を撮る。やっているうちにエキストラ諸君も乗ってきて、かなりの緊張感が生まれた。これは取り直しが少なく、すぐにロケは終わった。
その後、有楽町の映画館で試写会が催された。どこに登場するのかいな、と見ておったら、開始から45分目に俺が登場。今度ははっきりと自分の顔が確認できましたです。いい演技でしたよ、ハイ。
再彩斎・熊野の旅
昨夜、故郷熊野の旅から帰ってきました。今年5回目のわが故郷訪問でした。先週金曜日(12月5日)の夜行バスで故郷に帰り、親父の7回忌の法事に出席。北風が吹き、お寺での読経のときは寒かった。そのあと住職とともに親父の墓へ向かいました。
親父の墓は作家中上健次の墓のそばにあるので、墓参りするたびに中上先輩の墓に手を合わすことになります。日本各地から中上文学ファンが訪ねてくるので、いつも花や日本酒、タバコなどが供えられていて、彼の人気のほどが分ります。
さて、墓の前で線香を点けようとしたら、ライターのオイルが少なく、悪いことに風が強く、けっこう往生しました。なんせ、我がファミリーにはタバコを吸う人がいないので、ライターやマッチがないんですわ。悪戦苦闘の末、やっと線香に火をつけることができました。その顛末は愚弟のブログ http://blog.livedoor.jp/quanpo/を覗いてみてください。彼のブログには、ほかにディープな熊野的世界が描かれています。
思い起こせば6年前の暮、「親父が危ないので、早く帰ってきて。年を越えることができるかどうか」という愚弟からの電話をもらい、すぐに帰郷しました。結局、新年の9日に親父は他界。南洋兵士は永遠の眠りにつきました。今までに3回死にかけた親父の最後の旅立ちでした。
親父によると、1回目は小学生のときに川でおぼれ、ほとんど死にかけていたそうな。たまたま川のそばを牛を引いたおじさんが通り過ぎ、その人に助けてもらい、体を牛の背中に乗せられたそうな。骨のでこぼこによって、飲み込んだ水が一気に出て生き返り。
2回目は、ニューギニア戦線へ出向き、乗っている駆逐艦が米軍の攻撃を受け、脚を負傷しトラック等の病院に送られる。ニューギニアでは日本軍は壊滅。戦友はほとんど死んだが悪運強い親父は、脚を撃たれたために命拾い。
3回目は、日本に帰ってきて広島の呉の鎮守府にいるときに、原爆に遭うが距離が離れていたために、これまた命拾い。もう1回ぐらい、死にかけたことがあったと思いますわ。親父に言わせると、死に間際に三途の川から、「こっちに来い」と手招きされたが、必死に行かないでいると目が覚めて往き返ったと言ってました。
7回忌には親族13名が集まり、故人を偲びました。知的好奇心旺盛な、よく働く親父でした。叔父も伯母も元気で、子どもや孫の話などで盛り上がりました。
点滴の液青む今山眠る
山眠る血圧計にも傷があり
わたくしの股引き細し父に似て
そのあと、友人のうどん屋の大将を訪問、天下国家を熱っぽく語り合いました。夕方には隣の三重県の熊野市に移動し、ホテルにチェックイン。友人3名とホテル近くの居酒屋で飲みました。古くからの友人は、話がツーカーなのでいい。
翌日は、熊野市教育委員会主催の講演会で、俺らが講師。開始の2時まで時間があったので、市のスタッフのMさんと熊野古道を少し歩きました。
岩の苔風と影の遊び場所
松本峠に行くと、天気がよかったので七里御浜がくっきり。熊野川まで23キロも続く美しい海岸線です。前方に今年歩いた那智山や、太地の燈明崎まで見渡すことができました。
いままで何回も松本峠に行ったが、こんなに透明感があった記憶はない。素晴らしい冬の1日でした。 写真は、その松本峠から見た七里御浜。左端の岬が捕鯨で有名な太地の燈明崎、山並みは、今年歩いた那智の妙法山や大雲取がくっきりと屹立しています。
その感動を、中原中也風に、パロディの詩を書いてみると・・・
↓
天使が綿菓子を食べ、青空が海に移住し
白い斑が海面を漂っています
そこから茸のにおいがして、冬の日の熊野灘は穏やかです
遠くに燈明崎が霞んで見え、黒い瓦が静かにダンスを踊っています
トンビが舞い、これから冬の日の海は夕暮れに向かって前進し
波は自らの血脈に戻り、血のリズムと同調します
おお、なんという宇宙のリズムよ
みかんの香りがする風を呼吸し
霊魂は後に残って
ポケットに手を突っ込んで、冬の山を眺めていると
父の映像が気になりだします
すぐ下の道を自転車が通っていきました
今日一日、銀の風
天使の水遊びの優雅さよ
行ってらっしゃい 行ってらっしゃい
空を見上げる私のまなこ
講演はうまく行きました。タイトルは「海外旅行40年、今ここにいる幸せ」。愚弟いわく「アニキ、いつから宗教者になったん?」。確かに、新興宗教の講演会にあるようなタイトルやねと苦笑い。出席者の平均年齢は65歳ぐらいかな。現在、年配者の知的好奇心がすごいね。僕の漫談をしっかりとノートを取理ながら聞いてくれました。感謝多謝♪

講演が終わった後、紀勢線で亀山へ。ここのホテルで滋賀県近江八幡に住むD君と合流しました。彼は1年のうち半分はホノルル生活という贅沢な身分です。ホノルルのロータリークラブのメンバーとして活躍中ですわ。今回、彼と二人で仏師のI君を訪問し、酒を飲みたおしたろやないかい、というもの。
僕たち3人は、いまから38年前にロンドンの安宿で出会った。ともに同じ年齢で大学生でした。仏師I君は学生時代から手先が器用で、ロンドンでは皮を買ってきて、よくカバンなどを作っていました。今や仏像を作ることが本業ですが、国宝級の仏像の修理修復で名を成しています。しかし、仏師になるとはまったく想像しなかったなあ。彼も僕が紀行作家になることなど予想だにしていなかったでしょうけど。
3人がロンドンで会ったころに、三島由紀夫の割腹事件が起こり、一緒に朝日新聞のロンドン支局に朝日新聞のバックナンバーを見に行った記憶があります。まさに3人で一緒に会うのは1970年以来でした。ともに白髪が増え、髪も後退している身。3人の再会と元気に乾杯と感謝♪ 考えてみれば3人とも自由業でした。
仏師のI君とは、ロンドン~イスタンブール~インド・ネパールへと一緒に旅した仲間。ハードでハッピーなアジア・ハイウェイのビンボー旅行でした。彼のアトリエは滋賀県の甲賀市の郊外の、素敵な環境の中に建っていました。家の前が溜池で、これを借景としているわけですわ。
僕が当時のアルバムを持って行き、ロンドンでの安宿生活、アジアハイウェイでのヒッピー旅行などの写真を肴に飲んだ日本酒の美味かったこと。友に酔い、話に酔い、酒に酔った一夜でした。午前3時まで語り合いました。
「ここの山中にMiho Museumという、素敵な美術館があるので案内したい」というI君の勧めで、一緒に行きました。いやあ建物も展示物も素晴らしい。設計のコンセプトは「桃源郷(シャングリア)」。陶淵明の「桃花源記」に描かれた物語を、信楽の山中に再現したというわけです。
これは滋賀県の財産やね。建物は、ガラスのピラミッド型のルーブル美術館を設計したI.M.ペイ氏。この中国系のペイ氏はワシントンのナショナル・ギャラリー東館も設計しています。このMiho Museumもガラスをふんだんに使い、柔らかい光が館内に充満していました。
展示されている美術品は、メソポタミア、ギリシャ、ローマ、中国の一球品ばかりでした。この美術館は世界救世教系の新興宗教の持ち物ですが、館内には宗教宣伝臭さはまったくなかった。滋賀県に行ったら、ぜひ訪ねたい美術館です。現在、特別展として「川端康成と安田靫彦」の「大和し美し展」を開催しています。お二人の作品や原稿、骨董のコレクションが見ものです。

タイ通による、タイ情勢の解説
タイ情勢については、なんやらかんやら和歌山県です。何がどうなのか、日本のメディアからでは理解できない。
何でもありのタイ。クーデターは恒例のお祭りみたいで、最終的に国王が登場して、しゃんしゃんと手打ちという感じがしています。が、今回は分りづらい。
そんなとき、友人のドバシさんがメールを送ってくれました。彼は東南アジアを中心としたホテルのレップをしていて、アジア情勢には詳しい。彼の了解を得て、やつがれのブログに転載します。
↓
●タイでメシ食っています土橋です(←鯛茶漬けかな?)。僕としては、PAD(民主主義のための市民同盟)にかなり頭にきています。長引くと思ったら、やっぱりです。
今回のタイの騒動に関し、日本のメディアが正確な事情を十分に伝えないていないので、僕が知っている限りの情報をお皆様にお伝えします。
PADは、あたかも市民団体であるかのようにメディアは伝えていますが、実体はかなり違います。むしろ反民主主義の反市民団体です。外国人とタイの経済を人質にとるやり方は、テロそのものです。これを平然とやりきる民主主義の市民団体などあるわけがありません(←政治団体名を、いかにも民主主義団体のようにするのは昔からの常套手段です)。
彼らの背後は、旧保守勢力、旧伝統的なエリート層、タクシン政権時代の改革で長年持っていた利権を失った旧体質の企業と、利権の構造から甘い汁を吸っていたマフィアたちです。彼らには「公の利益」という言葉かありません。ですから、自分たちの失った利益を取り戻すためには、常識など必要がありません。
PADの政治的な主張は、「国会議員の7割を任命制、3割を選挙で選ぶ」、です。農民は正しい政治的判断が出来ないので選挙権を与えるべきではない、とも主張しています。これで皆さんわかるでしょ(←わかる、わかる)。
2006年PADは相当の金をつぎ込み、軍にクーデターを起こさせるのに成功しました。しかし、時代は旧体制が復活しても国を運営できないことが証明され、1年後、軍は政権を手放し総選挙で民意を問うた訳です。当然タクシン派の圧勝でした。
これでは大金をつぎ込んでせっかくタクシンを追い落とした旧体制派としては我慢が出来ません。彼らは力づくで再度クーデターが起きる状況を作り出そうとしました。それが首相府の占拠です。そして彼らは今「最後の闘い」を行っています。
彼らが言う「最後の闘い」の意味は、選挙をすると必ず負けるとわかっていますので、なんとしても混乱を引き起こしクーデターをもう一度やってもらおうとの魂胆です。そして憲法を改正し、自分たちの理想としての体制を作ろうとしています。夢よもう一度、です。
PADにとって誤算は、これだけの混乱を引き起こしたのに軍が動いてくれないことです。前回のクーデターで軍はPADのお先棒を担ぎ、大きな恥をかきましたので動きたくないのでしょう。軍にはむしろ選挙で民意を問えといわれてしまいましたが、PADとしては絶対飲めない提案です。
空港閉鎖以後にバンコクポール大学は、バンコク市民1080名に緊急のアンケートをとりましたが、70%以上がPADに反対しています。地方の大部分を占める農民はタクシン派を支持しています。
PADの支持者としてデモに参加している人達の多くは、日当500バーツと昼寝と食事付きで集めれられている祭りの好きな連中です。暴力でストレスを発散したいチンピラは率先して参加しています(←いわゆるガス抜きですわ)
今日、タイ憲法裁判所が与党に解党命令を出しましたが、これまたかなり政治的です。ほとんど何も審議せずにです。この判事たちはクーデター時に旧保守体制側の守護者として任命されていますから、この判決は当然ですね。選挙でタクシン派が圧勝したのに、タクシンが亡命せざるを得なかったのもこの憲法裁判所の判事たちがいるからです。
表向きのPADのリーダーのソンティは、以前タクシンの友達でしたが、成功者に対して逆恨みしているとしか思えない。彼を絶対にタイに戻したくない一心でPADのリーダーをやっているのだろう。もう一人の表向きのリーダーのチャムロンは、76年の「血の水曜日事件」の指揮官の一人です。
その後、彼は2度青年将校団としてクーデターを起こしましたが、2度とも失敗しています。今まで悪いことばかりしてきたので出家し、92年のクーデターでは市民側に付きましたが、やっぱり根は悪者です。
今年の8月から首相府を占拠し連日1-2万人の食費を出し続けられるのは、市民団体では無理です。資金源は利権を失った古い体質の華僑企業です。タクシン側も勿論多くの華僑企業がいますが、タイの経済は世界の中の歯車の一つとして活動していることを理解している企業です。
前回のクーデターでPAD側が軍を表に立てて政権を実質運営しましたが、愚策と無策でバーツ高を引き起こしタイ経済に打撃を与えてしまいました。時代は彼らを必要としなくなっているのです。PADに反対する人はその事を理解しています。空港閉鎖による経済的な損失や国家としての信用の失墜は、アナクロニズムのPADには理解できないことだし、理解する必要の無いことです。
4日には国王が何らかの判断を行うと思いますが、旧伝統的エリート層とは日本でいう華族ですので、身内を庇うことになるのか、それとも21世紀に相応しいタイを考えるのか、彼の判断を待ちたいと思います。
●追伸
PADの空港からの撤退でホット一息です。国王の誕生日12月5日の為の一時休戦です。PADにしても、次期政権がタクシン派であることは充分認識しています。
おそらく、疲れたから、闘争資金が不足してきたから、国王からネガティブにいわれるとこの先続けられない、非難が多すぎた、軍が乗ってこない、などの理由で、見かねた憲法裁の助けによって上げた拳を下ろせた、のが実情でしょう。
与党への憲法裁の解党命令が出ても、下院はタクシン派が多数派ですから、野党から首相を出し、野党による内閣はできません。出来たとしても全く機能しません。PADが納得する政府が出来る可能性は極めて低いです。
そうすると、彼らは再度何らかの行動に出るでしょう。その時、これまでおとなしくしていた反PAD側、それこそ本当の市民が怒りの行動に出るのではと思います。
暫らくはタイの政治から目が離せません。
↑タイはすべて国王の裁定待ちの国。今、キングは将棋の名人戦のような長考に入っているんでしょうね。







Recent Comments